反出生主義と動物権理論

このエッセイでは、書きたいことを書くと決めた
公序良俗や自分の倫理観に反しない限り

頭の中で浮かんでは消えていく、よしなしごと
こむずかしいことも頭の中で練りこんで、でも書き留めることもなく、現世から消えていっていた
それを少しだけ留めおく
そのために、論文形式できちんと書かなきゃと思っていたけど、そんなの重すぎて筆が動かない
だから、そんなの気にせずこのエッセイのラフな文体で書いてもいいじゃないか


とある場面で、その分野のとっても偉いひとから質問された
「反出生主義についてどう考えるか」
文脈としては動物倫理、動物の権利だった

そのときはテンパってしまって、なんと答えたのかほとんど覚えていない
その後でもんもんと考えながら書いたメモがこれ


動物権利論は実践を意図しない極論である
反出生主義はさらに強化したものである
平等の原則と権利の基準からは反出生主義は導かれない
権利と幸福はイコールではない
なにが幸福かは多様性である
動物権利論は種などのグループを論じない
個だけに着目するため反出生主義にはそぐわない


うーん、全然覚えてない
ちょっと整理してみよう


そもそも反出生主義とは、「人間は生まれてこないほうがいい」という思想
極端に言うと、人類は出生をやめて静かに絶滅しよう!っていう考え

存在すること自体が苦痛 → 苦痛は避けるべき → 存在自体を避けるべき

今生きているひとはしょうがないからがんばって生きよう
でも、苦痛ばかりの人生を新たな生命に与えるのは間違っている
だから新たに生んじゃいけない

ってこと
生老病死すべて苦であるっていう仏教をはじめとした古代インドの考え方と似てるけど
仏教は輪廻が強制だから生まれてくることは避けられない
だから解脱して輪廻の輪から抜け出そう!って考え


さて、動物の権利の文脈でこの質問が来たってことは、動物の権利を確保するためには究極人間がいなくなればいいじゃんって思う?ってことかな

でもそうはならない
動物権利論の根底は「平等の原則」
「同じモノは同じように扱うべし」
これが大前提

その「同じ」が重要で、「種」というのは「人種」や「性別」と同じでなんの根拠にもならない
同じような「苦しむ能力」があるならそれが誰であれ同じように扱う
同じような「感情」があるならそれが誰であれ同じように扱う

それなのに、人間だけが人間であるというだけで特別扱いされるのは不合理である
ってこと

ここから反出生主義をみてみると、これはもう人間をとっても特別扱いしている
逆のベクトルだけど
だから純粋な理論としてみると、動物権利論と反出生主義は相容れない

これが基本

でも人間を特別扱いしない反出生主義も考えられる
生きることが苦であることは人間だろうと動物だろうと変わらない
それなら、みんな生むのやめちゃえばいい
人間だって反出生主義を完遂するためには、生みたい!って人の意見は無視して生まないことを押しつけないといけない
それなら動物も同じように扱って生ませなければいい
人間の権利も動物の権利も、同じように制限する
これなら矛盾しない
「権利論」でありながら「権利」を制限することになるけれど


権利とひと言でいっているけど、ここでは2つの権利がまざっている

ひとつは「自己決定権」
生きる権利、生む権利、自分らしくある権利

もうひとつは「快楽権」
苦痛を与えられない権利

通常の動物権利論は前者を極大化
反出生主義は後者を極大化


反出生主義の目的は、苦痛や不幸の撲滅
動物権利論の目的は、動物にも人間と同じ権利があると認めること→これを突き詰めると、人間は動物に関わらない→野生動物が自然状態で苦しんでいようがそれは人間には関係ない

両者は目的としては相容れないんだけど、論理の構造としては整合する
どちらが正しいというわけではもちろんないし
どちらも苦しみをなんとかしたいという優しさや慈悲の心からはじまっている

もっとも、実践なんか考えるまでもない知的遊戯でしかないのかもしれないけれど

僕個人としては、社会や種全体のことや幸せの押しつけではなく、つらくても自分自身という「個」を尊重する権利論をとりたい


うーん、結局とっちらかったままだけど
あのときとっさにこれくらい返答できていたらよかったな
まーまた、何かをしているときにふと頭の中で議論がはじまって、書き留めることもなく消えていくんだろうな

コメント