母
数年前、僕が46になる2日前に、母が天に召された
神への愛と、家族を求め続けた人生だった
母は戦争が終わる前、そこそこ裕福な家庭に生まれ、戦後復興と共に成長した
母が生まれてすぐ、母の父が亡くなり母子家庭となる
中学生のときに母の母も亡くなり、人生の歯車が大きく動いた
親戚をたらい回しにされ、つらい少女時代だったようだ
そんな母の人生は、信仰と共にあった
大人になってから関わった人も、教会関係者ばかり
25歳のときに1度目の結婚をするも、1年足らずで離婚
離婚してすぐ女の子が生まれ、母が母になった
戸籍ではこの後、一度故郷に帰っている
その2年後、僕の父となる人と結婚
40歳になるまでにさらに7人の子を産んだ
そしてその直後、父は蒸発する
その前から、ほとんど家に父がいることはなかった
ここまでの話は、ほとんど記録をもとにしている
僕は思春期を過ぎてから、母とも兄弟姉妹とも、あまり話さなくなった
妹たちなら母から直接こういった話を聞いていたんだろうけど、僕はあまり知らない
子どもたちといることが母の幸せで、子どもたちを食べさせるために必死に働いた
若い頃から、助産師や看護師の手伝いをしていた関係で、病院での仕事が多かったけれど
日雇いの倉庫内軽作業でもなんでもやって、僕たちを育てた
過去に体験したオペ室の経験とかは、楽しそうに話していたのを覚えている
僕が思春期を過ぎた頃、資格は持っていなかった母は、看護学校に通って頑張っていた
みんなで生きるだけでも必死なのに、パワフルな母だった
小学生のとき、学校で妹の先生がいじめられていた
先生を助けるために精力的に動き、民法のワイドショーを呼んでニュースになったこともあった
なにに影響されたのか知らないけれど、何かのデモ行進に参加したりもしていた
母ひとりで子どもが8人、安定した職があるわけでもないし、学もない
身体もあまり強くなく、不整脈の持病もあった
当然のように極貧生活だったけれど
生活保護を断ったこともある
僕は子どものころの記憶があまりないので、よく覚えていないけれど
ケースワーカーの態度や言動がひどかったらしい
プライドの高い母は、自分がどんなに苦労することになろうと、人間としての尊厳と誇りを優先した
生活保護のお世話になったほうが、僕の生活もよくなっていたのかもしれないけれど
そんな母の決断を、当時も今も誇りに思う
気が強く、気位が高く、背中に一本筋が通った、凜とした人だった
「大草原の小さな家」に憧れ、「サウンド・オブ・ミュージック」のように子どもたちの合唱団で賛美歌を歌う
そんな夢をみていた
たぶん、また家族みんなで暮らすことが母の願いだったんだと思うけど、それが適うことはなかった
8人兄弟姉妹がいて、一番上の姉は今で言うヤングケアラー
僕たちの母代わりを担わされていた
僕は知らなかったけれど、十数年前に絶縁状をもって、母や僕たちと縁を切った
自分には自分の人生があるし、姉の気持ちもわかる
でもそのときの母の心痛は、とても大きかったことだろう
一番上の兄は、僕が中学生のときに家を出て、そのまま帰ってこなかった
このふたりは、失踪前の父をよく知っていて、虐待のようなこともあったらしい
ヤングケアラーでもあったし、母を捨てる理由は十分にある
母の死後、その連絡をするために僕が戸籍を調べ、手紙を送ったけど、返事は来なかった
縁が切れても、彼らは彼らの人生を幸せに生きてくれていれば、母も本望だろう
僕は兄弟のなかで、母に一番迷惑をかけた
出産のときも僕は難産で、母体が危険であり子は諦めるよう医師から言われていたのに、母は産むことを選んだ
中学2年生のときは少し不登校になり、行きたくないという僕を引きずって学校まで連れて行った
15歳になると僕は悪い友達と付き合い始め、深夜に警察署から電話がきたり、家庭裁判所に呼び出された
話しかけられても返事もせず、一度だけ母を泣かせたこともある
理由はまったく覚えていないけれど、このころ一度だけはたかれたこともあった
子どものころはママと呼んでいたのに、いつしか呼ぶこともなくなった
20代の後半に僕は鬱になり、自ら命を絶とうとしたときに、なぜかその時だけ母は異常に気づき、僕を抱きしめた
他の子どもたちは素直でいい子に育ったのに、僕だけたくさん迷惑をかけ心配させた
生きているのが辛かった僕だったけど、少なくても母だけは、僕が死んだらとても悲しむことが確定していて、だから母が生きているうちは頑張ろうって、なんとか生きた
結婚しようとか、家族をもとうとか、一度も考えたこともなかった僕だけど、なぜか結婚した
母が元気なうちに妻と会わせることができて、本当によかった
晩年、「●●(僕の名前)は〇〇ちゃん(妻の名前)がいるから大丈夫」って、妹に言っていたらしい
僕は31歳まで、ときに家をでたりもしたけれど、母と暮らした
2番目の兄が母に買ってくれた家が母の終の住処となったけど、そこでも少し一緒に暮らした
たまに実家(この家を実家と呼んでいた)に帰ると、いつもの簡単な料理をつくってくれて、ほとんど返事もしない僕に諦めず話しかけてくれて、僕が帰るときには犬を抱きながら玄関の前で、僕が見えなくなるまで手を振っていた
この家に引っ越したとき、母は心臓が弱かったこともあり、あと10年もつかなと思ったことを覚えている
結果的には、それから16年生きた
ある年の1月1日、母が脳梗塞で倒れた
コロナ禍で病院はパンク状態、搬送先も決まらず処置も遅れた
常に母と一緒に生活してくれていた妹が早く発見してくれたおかげで、一命を取り留めたけど、重い要介護状態になった
妹がちゃんと保険に入ってくれていたので、お金の問題はほとんどなかった
でもコロナ禍で、同居の親族以外は会いにいけない
自宅介護になってからも、コロナがうつると致命的なため、会うことはできなかった
この後生まれた兄の娘も、結局生前の母と会うことはできなかった
子どもが大好きな母は、会いたかっただろうな
一命を取り留めた母は、リハビリも頑張り、いつもニコニコしていて、介護士さんやお世話になった皆様に人気だった
痴呆もはじまり、母(母の母)を呼んだり、幼児帰りもしたらしい
全部、妹から聞いた話だけど
動物も大好きだった母は、野良猫のお世話をしていた
でも近所から苦情がきて、母が倒れる前、僕が庭に猫小屋を建てた
そこで面倒みていた猫たちは、母が最後に「うちの子」と言った子たち
でも介護は大変で、我が家で引き取ることになった
猫5匹を引き取るために久しぶりの実家へ
猫を回収してる途中、母が帰ってきた
ニコニコしていて、とても動きもゆっくりで、ろれつも上手くまわらないけれど、最後に猫を撫でてくれて、バイバイをする
母と会うのはこれが最後になったけど、僕が家を出る前、上手く動かない身体で、最後にハグをしようとしていたような気がして、今でも心残り
それから1ヶ月と少し、母は息を引き取り、神の御許へと旅立った
母の人生は信仰とともにあった
家では賛美歌が流れ、母もよく歌っていた
中学前半くらいまでは教会に行っていた僕だけど、大人になってから信仰心はない
それでも、母の人生が信仰に満ち満ちていたことは間違いなく、母の世界には神様がいて、母が神の愛に包まれて旅立ったことに間違いはない
今は、神様の身許で、先に旅だった多くの犬や猫たち、そして母の母や父と一緒にいることだろう
神様、ママをよろしくお願いします
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