僕とバイクの歩んだ道
高校生のとき、僕はバイクにはまった。
バイクは乗るのも整備するのも好きだった。
乗るといっても、レースやオフロードみたいな乗る技術にはまったく興味がなくて、ただ田舎道やゆるやかな山道を、のんびり走るだけでいい。
いろいろなバイクに乗りたいというのもなくて、バイクの車種にもそれほど興味はなかった。
ただぼーっと自然の中を走りたいだけ。
友だちと走るのもそれはそれで楽しいけれど、ひとりで走るのはそれ以上に好きだった。
思えば中学3年生、バイクや車に興味を持った思春期キッズたちが、もうすぐ現実になる!とワクワクする年頃だ。
車は18歳、まだ遠い。
バイクは16歳。もうすぐそこ。
先輩とかにはもう乗っている人もいるし、ヤンキー漫画の主役は車じゃなくてバイクだ。
キッズたちは、こぞってバイク雑誌を買う。
「おれぜってーCB乗るわ」
「いやレーサーでしょ。峠攻めるわ」
みたいな妄想話が花開く。
オタク癖のある奴は、バイク車種図鑑のようなもので、ポケモン言えるかなみたいに暗記しだす。
街中でバイクが通ると、「ゼファーだ!かっけーよなー」みたいに憧れドヤ顔をする。
僕の世代は、まだ辛うじてレーサーレプリカブームが残り、ネイキッドブームが来ていたころ。
レース車を市販化したような速いバイクから、ワイルドなバイクへの移行期だった。
アメリカンバイクブームはもう少し先。
中学生の僕はそこまで夢中にはならなかったけど、16歳になるとすぐに原付の免許を取った。
お金もなかったし、中免(中型限定免許。今では普通自動二輪免許というらしい。)は1年待つことになった。
そして17歳になってすぐ、高校2年生の夏休み、合宿で中免を取得。
このとき僕は、アメリカンバイク、特にハーレーに憧れていた。
でも、ハーレーは高いし重いし壊れるし大型バイクだし、ヒヨった僕はホンダが出していた400ccのハーレーもどき、Steed400(スティード)というアメリカンバイクに目を付けた。
400ccなので中免で乗れる。
でも新車でたしか60万円くらい。
中古でも大して安くなっていない。
僕はお姉ちゃんに相談した。というかお願いした。
優しいお姉ちゃんは渋々ながらも、僕の代わりにローンを組んでくれた。
姉は女神だった。
こうして僕は、高校2年生にして月3万円のローンを抱え、アメリカンバイクのオーナーとなった。
姉も兄も家庭のためにすべてを犠牲にして生きてきたのに、そこに甘えた僕は好き放題だった。
バイト代はローンと改造費に消え、家計になんてほとんど入れない。
来月のバイト代は幾らだから来月このパーツを買って、再来月からちょっと貯めて次にこのパーツを買って…とバイク改造の沼にはまっていた。
自分のバイクを手にいれた僕は、オイル交換とかそういうのをバイク屋に出すお金を、とてももったいなく感じた。
自分でやれば無料、部品代は掛かるけどバイク屋に出すよりはるかに安い。
そして、楽しい。
僕は整備にはまった。
整備は楽しかった。
通信教育でバイク整備の講座を受講したくらい。
そういえば子どもの頃から、なにか分解していた。
男の子が多かったこともあるだろうけど、ファミコンカセットも外装がなく、基盤むき出しだった。
その頃になると、周りにもバイクを乗ってる人は多くなった。
僕は、その人たちのバイクもいじるようになった。
そして僕は、バイクはずっと乗るだろうしバイク屋に出すお金がもったいない、やり取りするのが嫌、それに整備は楽しい、ほかにやりたい仕事もない、ということで、バイク屋になることにした。
この「なんでも自分でやろうとする癖」は今でも変わらず、DIYばかりしている…
当時、僕がいた埼玉県の高校では「3ない運動」というものがあって、バイクは禁止されていた。そのせいか、高校に来る求人にもバイク屋はなかった。そもそも、バイク屋は規模が小さな個人経営が多いので、当たり前かもだけど。
だから僕は、高校を卒業してから自分で探した。
そして秋頃、自宅から15kmくらい先にある大きめのバイク屋に就職した。
バイク屋を始めても、整備はほぼひとりだけで完結する。
構造をみて、サービスマニュアルをみて、どこをどうやるのか頭の中で組み立てて、実行。
調子が悪いとかも、現象を調べて原因の仮説を立て、ひとつひとつ試してみたり、より詳しく調べて絞り込んでいく。推理と実行みたいなものだ。
バイクも車も、ちゃんと整備することも考えて設計されていて、いつも感心していた。
どうやってこんなところまで考えて設計しているんだろう、って。
初めて触る機械や家電も、構造をみて設計者の意図を推察して、どこにネジがありそうだな、とか考えれば、だいたい合っている。
探偵になって推理しているみたいで、修理も楽しい。
ただ無心に磨いたり、ネジを回したり、やっていることの結果がすぐに出たりするのも、整備が楽しかった理由のひとつかもしれない。
わからないことや、どうしても出来ないことは先輩たちに聞く。
そのバイク屋には、僕を含めて4人の整備士がいた。
40代の工場長、なんだかくたびれた感じで、いつも疲れている。無口で怒ると怖い。ほぼハーレー専門。
30代の師匠。わからない事はこの人に聞いた。僕の整備の師匠といえる。1年ちょいで独立して自分の小さなお店を出した。日本車、特にカワサキが得意。身体は小さいけど、ジブリに出てきそうな無骨で寡黙だけど優しい、いかにも技術者といった感じの人。
20代の先輩。整備士なのに通信制の大学出ている珍しい人。長身で顔も中身も優しい。車検や引き取りなんかの外回りはだいたいこの人が積載車(トラック)で出る。車検整備とか日本車担当。地味ながらビジネスとして最も重要なポジション。整備士なのに真面目で社交的。
僕。新人整備士。日本車と欧州車担当。ほか雑用。特にベスパは全部僕担当だった。ベスパのピアジオ社の研修とかも行かせてもらった。
途中、30代の師匠が独立して辞めたら、また30代の元車の整備士が入社。でっかい身体でミニクーパーに乗り、ジムカーナ競技にも参加するアクティブな愛妻家。
そして僕が辞める少し前に、18歳の若者が入社。スピード違反で警察から逃げるところを「警察24時」みたいなので放送された走り屋君。あれから彼は整備士になれたのだろうか。
このような職場で、僕は約2年間働いた。
自宅からは約15km。雨の日も風の日も、毎日スティードで通勤した。
朝出勤のためにバイクで走っていると、あまりにもいい陽気で気がついたら道をそれ、気づいたら秩父にいたこともあった。
携帯もなかったので、途中ふと仕事であったことを思い出し、公衆電話から「すいません、今、秩父にいまして。。はい。昼過ぎくらいには出勤できるかと。。」みたいなことも何回かあった。今思えば迷惑すぎる社員だ。
不注意で怪我をしたりもしたけれど、大きな怪我や事故やミスもなく、それなりに整備士としてこなせていたとは思う。
ただの部品交換ではない難しい修理をこなしたときには、30代師匠に「君は天才整備士になれるよ」と褒められたり。
「プラグ洗います」と言ったら「洗うじゃねーだろ。清掃だろ」と工場長に怒られたり。なぜ「洗う」じゃダメなの?とずっともんもんとしていた。さんずいついてるから?確かにスパークプラグはサンドブラストでやるから水使わないけど。でも整備用語として、プロとして正しいのは「清掃」なのだ。「洗う」は違う。工場長はプロ意識を持て、と言いたかったのかもしれない。
みなさんとプライベートな付き合いはほぼなかったけれど、整備士さんたちの人には恵まれた環境だった。
そこで働きながら整備士の資格をとり、2年間で一通りのことは出来るようになった。
整備の知識や経験も増えていった。
ホンダ車は優等生。整備しやすい。
ヤマハ車もほぼ同じ。
カワサキ車は独特。30代師匠が主にやっていたから、あまり深い整備はしなかった。
スズキ車、お前はダメだ。とよく言われるけど、意外と好きだった。スズキ車だけ設計思想が明らかに違う。整備方法も独特。普通こっちだろ!と思うようなところにボルトがあったり。でもその違いも面白かった。
そしてベスパ。まさに「機械」。電子制御とかなにもなく、単純構造であるがゆえにわかりやすく、壊れやすい。でも修理もしやすい。
ボルトを締める時の力加減。最初はわからなくて強く締めすぎてよくボルトをねじ切った。
予想した通りだった故障原因が的中して修理が終わった時の快哉と醍醐味。
修理後に試乗に出て公道を走り、音・振動・臭い・機械の挙動・見た目など、五感を研ぎ澄ませるときの集中。
お客さんとのやりとり。
そして黙々と作業に没頭することができる時間。
整備の仕事は楽しかった。
そして僕は、2年の経験を積み、少し飽きてしまったのと、少しの違和感を感じて、辞めてしまった。
バイクの整備って、結局他人が設計して他人が作ったものを、そのまま元通りにしてるだけ。
そこに自分の意思や創意工夫はない。ほとんどの作業はただの部品交換。
もちろん「どのように整備するか」は人それぞれ違うし、十分創意も工夫もあるんだけど、もっとメタな部分というか、何か違和感を感じた。
バイク屋を辞めたことを姉に言ったとき、こんな理由をぼやーっとした感じで言ったら「あんた意外と野心家だったのね」と言われ、自分では「いやそういうことじゃないんだな」と思いながらも、もしかしてそうなのか?と少し驚いた。
そんなこんなで、将来は小さなバイク屋でも出して、髭面でオイルまみれのバイク屋オヤジにでもなって、若いやつらに「あんまヤンチャするんじゃねーぞ」とか言っている自分、という小さな将来像を消して、僕はバイク屋を辞めた。
フリーターになった僕は、スティードに乗って旅に出た。
東日本一周。
なぜ日本一周じゃなかったのかは忘れてしまった。
東日本大震災の10年以上前。
地図もなく下道をのんびり走り、砂浜とかで適当に野宿。
たまに飛び込みで民宿に泊まり、気ままに旅をした。
それから数年が経ち、およそ8年間共に歩んだ愛車を手放した。
10代の頃はハーレーに憧れた。
映画『イージーライダー』の冒頭で、腕時計を放り投げ走り出すピーター・フォンダとデニス・ホッパー。彼らのようになにもかも捨て、いつかRoute 66※を横断する、と夢を見ていた。
でも時は経ち、そんな気持ちも次第に薄れ、というか車めっちゃ便利!
その後僕はタウンエースの荷室を改造し、布団を積んで本州1周の旅をした。快適だった。
※Route 66:アメリカ大陸を横断する自由の象徴であり、今もなおバイク乗りやアメ車好きの憧れとされる伝説のハイウェイ。1985年に廃線となっている。
僕は、バイクをバラバラにして、元に組み直すことはできるようになった。
だけど、自分自身の得体の知れない気持ちはまったくわからず、フリーターを続けた。
あてもなく風に流され、気ままにさまよい続ける人生は、相変わらずだ。
今も、DIYや、自家用車の整備で工具を握ると、すぐに身体に染みついた感覚が蘇ってくる。
でも、人生や心の整備は、できるようになれる気が、まったくしない。
まぁそれでも、気づいたら手に入れていたこの庭で、のんびりとエッセイでも綴っていこうか。
追記:今はまたバイクに乗りたいという欲はまったくない。頸椎椎間板ヘルニアになったので、できるだけ乗らない方がいいらしい。乗るなら前傾姿勢にならず、振動もないやつ、で、ぜったいに事故らないこと。
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| 新車当時 |
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| 構造変更をパスした合法カスタム後 |


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