ドアの向こう側

僕は21歳のころ、居酒屋バイトを始めた。
バイトといっても名目上は正社員で、たしかそのほうが給料がいいから正社員という形にしたんだ。でも、自分ではそれほど長く勤めるつもりも転勤するつもりもなく、完全にバイト気分で始めた。
居酒屋はとあるチェーン店で、自宅最寄り駅の駅ビルに入っていたお店だ。
その駅からの通学圏内にはいくつかの大学があって、バイトはほとんど大学生ばかりだった。
僕はそこで初めて、大学生という生物とまともに触れ合うこととなった。


お店の正社員は、店長、チーフ(料理長)、僕の3人だけ。
僕が慣れてくるとチーフが異動して、店長、新たに来た主任、僕だけになった。
店長と主任はホール担当、僕は調理場担当。
そしてやはりホールは女子が多く、調理場は男子しかいなかった。
調理場の男子バイトたちとは、僕は意外とすぐに仲良くなれた。
「キャップ」というあだ名をいただいたくらい。
店長とかチーフとか肩書きがない平社員だったので、じゃあキャプテンということでキャップ、だそうだ。
一方、ホールの人たちとの交流はほとんどない。
仕事上のやり取りと、「今日まかないなんですかー」ぐらい。

社員もみんな若くて、なんというか大学のサークルみたいな仕事場で、バイトたちもみんな仲良かったみたいだ。朝5時にお店を閉めると、カラオケ室でカラオケをしたり、そのままお酒を飲んだり、そんなバイト先だった。
もちろん僕は参加していないけど。

お店は17時から翌朝5時まで。
早番が夜22時まで。遅番が夜22時から。
だから22時付近には、人口密度が高くなることが多かった。

2ヶ月くらいして料理長が異動した後は僕が調理場の責任者だったので、食材の発注とかも僕の仕事だった。
毎日食材の在庫を確認して、夜10時までに本部にFAXで発注する。
次の日何がどれくらい売れるのか予想し、余らせないように、足りなくならないように、ひとつひとつの食材の発注数を決める。
なかなかに重要で頭を使う仕事なのだ。
レタスを何個発注するか1個単位で悩んでいるのに、主任はまかないとか言ってレタスを丸1個食いやがる。腹立った。


お店の控え室には棚があって、そこにダンボールでレタスとかを保管していた。
ある日、僕はいつも通り発注作業に入り、控え室のドアを開けた。

300ms、つまりコンマ3秒でドアを閉めた。

ドアを開けた一瞬で見えた光景は、にわかには信じがたいものだった。
若かりし頃の鈴木京香さん似のアルバイト女子大生、京香さんが着替えていたのだ!
上半身下着姿であった。
目も合ってしまった。
一瞬でドアを閉めたけれど、その光景は僕の網膜により電気信号へと変換され、視神経、視交叉、視索、外側膝状体、そして視放線を通り、大脳皮質の第一次視覚野へと伝達、視覚連合野により処理され再び映像となり、海馬へと記録された。
「あ、ごめん」
ドア越しに謝る。

いわゆるラッキースケベと言われるような出来事だけれど、僕にはラッキーなんて気持ちはなく、本当の意味で心臓バクバク、心拍数は急上昇、過度のストレス。
迷走神経反射もちの僕は、失神する危険性すらあった。

目が合った以上、言い逃れはできない。
とっさに「ごめん」と言ってしまった以上、言い逃れることは不可能なんだ。
京香さんとはあまり話したことがない。
というか、バイト女子大生さんたちとまともに話した事なんてない。
好感度、というより嫌悪度?も不明だ。


あぁ、\(^o^)/オワタ。

もう辞めなきゃ。
この女子大生だらけのお店で「キャップに見られた、いや、覗かれた。絶対わざとだった。」なんて言われたら逮捕だ。
19歳の女子大生と、21歳の前歴有り高卒フリーター。
どちらの言い分が通るかなんて、疑念が芽吹く余地さえない。
取調室で強面の刑事さんに責められ、ありもしないはずの余罪もたくさん出てくるんだ。
そして名前も知らない自称友人たちが「いやぁ、あの顔みればわかりますよね。いつかやると思ってました。」とか言うんだ。
判決なんて開廷前に確定だ。
もう未成年じゃ無い。
(21)だ。
実名出ちゃう。
そこそこ有名な居酒屋チェーンの正社員がアルバイト女子大生を覗き。
ワイドショーの餌食だ。


ドアの外で僕が青くなったり赤くなったりしていると、何事もなかったように平然と出てくる京香さん。
「すいません、どうぞー」
発注の続きをやれと。
まったくなんの動揺もみられない。
すべては僕の妄想だったのか、と自分の正気を疑うレベルだ。
女子大生は強かった。


というか、そもそもなんで控え室で着替えているのか。
それにまだ22時には余裕があった。
遅番なのに早く来すぎだ。

そういえば、この店には更衣室がなかったのだ。
女子たちみな、普段は非常階段で着替えていた。
外からは見えないようになっているとはいえ、非常階段で着替えさせるというのは、今なら安全管理義務違反だ。
でもなかったのだ、更衣室。
男子大生も女子大生も、学校終わりにそのままバイトに来ることだって多い。
居酒屋の制服だってある。
洗濯は業者がやってくれるから、脱いだ制服は洗濯ボックスに入れる。
着替えることが前提なのに、なぜ更衣室がない!
僕は悪くない。
更衣室がないのが悪い。


いや、やはり、悪いのは僕だ。
控え室で着替える方が、階段で着替えるよりはるかにマシだ。
そこにドアがある以上、開ける前にノックをするべきなのだ。
たとえそこが勝手に更衣室になっていたなんて、知らなかったとしても。

ドア=未知の世界・未知の状況がその向こうに控えているのだ。
古くからドアというものは、ロマン派絵画にみるように、未知・死・異界・内面世界、あるいは希望や未来。この世とあの世の境界もあらわし、変容も意味する。
さらに、哲学の巨人たちの思考を応用的にみれば、ハイデガーはドアはまだ現実化していない未来への可能性であるとみれるし、キルケゴールは主体的決断の象徴でもあるととれる。レヴィナスは他者の不可侵性をドアに求めた。
ドアというものは、かくも危険であり、象徴的なものなのだ。

それを、この僕は、ノックもしないで開けた!


幸いにして京香様は心優しく、その後僕が糾弾されることも、誰かにあの出来事を言われることもなく、平穏無事に過ごすことが出来た。
僕を怖がっていたわけではないことは、態度でわかった。
彼女にとっては、どうでもいい些細なできごとだったのだろうか。
でも一歩間違えれば、間違いなく破滅への扉だった。
それをあの女神は、いや菩薩は、その慈悲により、無かったものとしたのか。
どちらにしても、僕が禁忌を犯してしまったことに変わりはない。
一社員として僕は保身に走らず、「更衣室を用意せよ」と会社に訴えるべきだったのか。

あのドアは、僕にとってたしかに異界への扉であった。
あれはラッキーだったのだろうか。
僕の中のなんらかの扉を開いてしまったのだろうか。


そして僕は、閉じられたドアは開ける前にノックすること、開けるときはそぅっと開けること、自分がドアの内側にいるときはカギを掛けることを誓った。
最後のひとつは、妻がトイレのドアを開けてしまう危険があるため、特に注意しておこなっている。
我が妻は、知の巨人たちによるドアという概念を、まったく気にしない小さき巨人なのだから。

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