ことば to 言葉
僕は今、言葉を使うことで、自分の頭や心の中にからまっているものを、現実世界に解き放っている。エッセイを書いているのだ。
でも、言葉は怖いものだ。
容易に誰かを傷つけてしまう。
言葉は、たったひとことでひとを救うこともあれば、人を殺すことさえできてしまう、諸刃の剣なのだ。
言葉は、とても難しい。
僕の頭の中でぐるぐるしている何かを、言葉として紡いだとしても、100%そのままに表すことはできない。
たとえば、ここで今、僕は「表す」と書いたけれど、「現す」にしようか、「あらわす」にしようか、それだけでも悩むのだ。
読者へと口で会話をしているようにしたいとき、僕は「あらわす」とひらがなで書くことが多い。「表す」も「現す」も、さーっと目が滑るように読んでいったときに、一旦ひっかかる感じがする。
「ひょうs……あらわす」「げんす…」と、一瞬読み間違えることも多い気がする。
だからか、僕のエッセイは、とってもひらがなが多い。
でも、意味をはっきりと間違いなく、ニュアンスも含めて伝えたいときは、漢字はとても便利だ。
「表す」は、「内面にあるものを外に示す」。
「現す」は、「隠れていたものが姿を見せる」。
※どちらも広辞苑第七版より
このような意味をもたせるだけではなく、漢字であるからこそ、しんみりする、他の意味をも含意させる、ということもあるだろう。
「わびさび」よりも、「侘び寂び」や「侘寂」のほうが、よく知らない人にも言葉の雰囲気が伝わるように思う。
文脈にもよるけれど。
言葉を選ぶということ、文字を選ぶということは、それだけで何をどのように伝えたいのかが変わってしまう、重要な選択なのだ。
夏目漱石の『こころ』の題名が、もし『心』とか『KOKORO』だったら、それだけで、あまり読まれることがなかったのじゃないだろうか。
もちろん、さーっと簡単に書いているエッセイの一言一句すべてにこんなに気をつかっているわけではないし、100%そのまま表す必要もない。
例えば、「ひと」と書くときは、いつも適当に、でもちょっと悩んで書いている。
「ひと」「人」「ヒト」「他人」「人間」
全部、ある程度同じ場所で入れ替えることができる。
「ヒト」は明確だ。学術論文と同じで、生物学的な意味があるとき、ホモ・サピエンスという意味で使うときは、これ一択。
「人」は読みやすいし意味も明確だけれども、なにか冷たい感じがするのだ。
「ひと」を「他人」という意味で使うときも多いけど、やっぱり一瞬「たにん……ひと」と読み直してしまうような、文字の上を流れている目がちょっとひっかかってしまうような、そんな感じがする。
「時」と「とき」も、迷う筆頭だ。
これは法律文章で慣れているので、同じ使い方をしているはず。
「時」は時間や時代、「とき」は状況や場面、場合、仮定とか。
「出来る」と「できる」とか、「何」と「なに」、「無い」と「ない」もよく悩む。
一方、「全く」と「まったく」は、まったく悩まない。
「全く」をまったくとスムーズに読むことはできないと思うし、必ずしも「すべて」「100%」という意味では使っていないからだ。
それだけじゃなく、たとえば「これはあるけど、これは無い」みたいに続くとき、後ろが漢字なら前も漢字じゃないと美しくない、と思ってしまう。僕はひらがなのほうが多いから「これはあるけど、これはない」のほうがしっくりくる。
だから、僕のエッセイでは「表記揺れ」が多いかもしれない。
ここでは「できる」と書いているのに、その次の段落では「出来る」と書いている、とか。
これは、わざとなので、厳密には表記揺れではないのだ。
まあ、意図していないただの間違い、立派な表記揺れ、のほうが、かなり多いと思うけど。
校正なんてしようとしたら、赤文字だらけになってしまって、どれが正解なのか誰にもわからない文章ができあがっている。
もし、万が一、僕が書いたエッセイを出版するようなことになったら、きっと全部見直したくなるだろう。
ひとつひとつの単語や熟語を、どのように書くのか。
でも、さーっと書いたときとの僕の心の中と、出版をするときに見直したときの心の中は、たぶんまったく違う。
エッセイを書いたときの生の感情や意思が伝わるのは、書いたときの文章そのままなのかもしれない。
ほかにも、気になることがある。
これは書くときだけではなく、いつでも気になる。
「兄弟」というと、姉妹も含まれているのに、男性の兄弟だけを意味しているように感じてしまう。
ほかにも、日常会話で「茶碗」というけれど、それは本来は「飯椀」なのだ。
なぜ「茶」なんだろう。「茶碗」が意味するのは正しくは「抹茶碗」だ。もちろん、もともとは茶碗で、それに飯をよそうようになって、というような歴史はなんとなく知っている。言葉が常に変化をしているというのも知っている。でも、ちょっと違和感を感じてしまうのだ。
僕は、頭の回転が遅い。
僕は、会話が苦手だ。
じっくりと時間をかけ、ゆっくりと何度も頭をひねれば出てくる考えも、芸人さんや営業マンみたいに、ポンポンとは出てこない。
言葉は、ひとをたやすく傷つけてしまう。
口で話していると、トロい頭から飛び出した言葉は、もう回収も改修もできない。
文字で書くなら、相手にぶつける前にちょっと猶予がある。それなのに、特に仕事のメールで僕は、数多くの人を傷つけてきた。メールは、相手の顔が見えないのも、ひとつの要因だろう。電話は、その両方が揃っている。もちろん生の声を聞いているのだから、メールよりはマシなはずなんだけれど、感情から生まれる言葉は危険すぎる。
電話が一番怖いし嫌いだ。
言葉はとても危険で、扱いが難しいのだ。
僕は、口で言葉で話すよりも、文章を書く方がいい。
でも、頭の中で書きたいことがワーって溢れてくるときもあって、書くのが遅いから、書いている内に頭に浮かんだことが消えてしまうこともある。
何かすごくいいこと思いついていたのに、あっという間に夢幻の彼方へ消えてしまう。
それでも僕には、時間に余裕のある、人目に触れる前にもう一度確認できるような書き言葉が、とても合っている。逆に、対談とか、ひとと話しているその場だからこそ、出てくるいいこともあるだろう。引き出すのが上手いプロのインタビューアーとお話したら、きっと自分でも驚くような言葉が出てくることだろう。
それが、何十年も「思い出し恥ずかしい」をする言葉になるかもしれないけれど。
ひとは、言葉を手に入れることで、自分の頭のなかのぐちゃぐちゃを、整理できるようになった。
そして、時空を超越した。
言葉を紡ぐことで、親は子に、自分の経験をより正確に伝えることができるようになった。そして、文字として残されることで、2,500年前のアリストテレスや釈尊たちと、対話をすることができるようになった。
このエッセイも、僕が見も知らない人種も国籍も違う誰かが読んで何かを感じるかもしれないし、もしかしたら、今はまだ生まれていない人が、読むかもしれない。
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