「悔しい」と「気づき」

僕は「悔しい」と思ったことがあまりない
悔しいという気持ちは、なにか目的があって、でも届かなくて、そんな時に生じる
つまり、次の3つの要素が全部合わさることが必要

  • 目的
  • 可能性
  • 努力

「努力」に関しては、人によっては、あるいは時と場合により、必須じゃないかもしれない
自分がその「目的」を適えるのにふさわしいと思ってる人は、努力なんて必要ないと思ってるだろうしね

「目的」と「可能性」は必須

「あの人と付き合いたい」「〇〇大学に入る!」「あれが欲しい」

こんな目的

可能性については、客観的なものではなく、自分が可能性があると思っているかどうかの主観

付き合える可能性が一切なければ、付き合えなくても悔しいとは思わない
僕がハーバード大学に入学したいと思っても、まあ無理だよねと心から思っていれば悔しくない
大きな無人島が欲しいと思っても、買えるわけもないから悔しくない(あれ、可能性なくてもちょっと悔しいかも…)
まあ何事にも例外はあるさ


なんだかぼーっとプラプラ流されて生きてきた僕は、悔しいと思ったことがほとんどない
難しそうなことからは逃げて生きてきたし


高校受験は、家から通えそうで頑張らなくても入れるところを選んだし、落ちたら働こうと思っていたから、努力もしなかった
受験勉強は、試験の3日前から、こたつで
運良く受かったけど、落ちててもたぶん悔しくなかった

18歳のときには、大学なんて選択肢は微塵もなく、頭の片隅に浮かぶこともなかった

まともな就活もしていないし
若いときはなぜか小器用で、バイトをしてもすぐ覚えてできるようになった


もともと欲求も少なく欲しいものもほとんどない
他人に興味が無く、誰かと付き合いたいと思ったこともほとんどない
誰かが持っているモノや才能を、羨ましいと思うことはあっても、僕にないから悔しいとは思わなかった

後は、逃げてきたのもあるだろう
もしかしたら、僕がまともに高校を選ばなかったのは、そのことによって生じる努力や、その先にある挫折から、無意識に逃げていたのかもしれない
自己評価が低いから、素敵な人と知り合いになっても、好きにならないように、あえて関わらないように逃げていたのかもしれない
資格試験も受かりそうなものだけしか受けず
自分の枠の中だけで生きてきた
すっぱいブドウのキツネみたいにひねくれて


そんな僕でも、いくつか悔しいと思ったことはある
今一番に思い浮かぶのは、表彰学生になれなかったこと

僕は30半ばを過ぎてから、通信で大学に通った
途中いろいろあって、休学もして、卒業するまで14年
最後の1年は、妻の多大な協力もあり、一所懸命に卒論を書き上げた
あのときの僕にこれ以上のものは書けないと、すべてを出し切ったと言い切れる
卒論も卒業試験もS判定をもらい、無事卒業
表彰学生なんて気にもしていなかった

卒業式の後の懇親会で、指導教授から教えてもらった
なんて言われたのか、はっきり覚えてはいないけれど、あと少しで、次点で、表彰学生だったらしい

なんでだろう
気にもしていなかったのに
じわじわと悔しさが沸いてきた
もともとネガティブ思考な僕は、うじうじ考え始めた

「金時計欲しかった・・」
「あれだけ頑張って書いたのに評価されなかった(S判定もらってますが・・)」
「たった数百人の中でも一位になれなかった(傲慢すぎ・・)」
「評価は卒論だけじゃないし、僕は勉強するために入ったから、学生同士の交流とか過去問の融通とかしなかったし、いい成績を取るためじゃなく苦手な科目も逃げないで勉強したから、総合評価なんて目指してなかったし!(自分守るのに必死)」
「14年も在籍してて長すぎて最優秀とかありえないし(こんなに頑張ったんだから「頑張ったで賞」とかくれ!)」
「表彰学生って卒業式で壇上あがるじゃん!無理無理!」

などなど、自分の醜いところがいっぱい出てきた
と同時に

「僕は学問じゃなくて評価を求めてたのか」
「意外と自信過剰」
「欲深い」

などなど、悔しい思いをすることで自分への新たな気づきがあった
悔しいということには、気づきがあり、場合によってはそれによる成長がある
僕は今までそれからも逃げていたんだな


この歳になってこんなことで「悔しい」と思い
自分への発見がある
人生は面白いな

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