写真とカメラ

写真には、現在が無い。

撮影をしているときには、未来のことを考えている。
写真の撮れ具合、どんな写真に仕上がるか、誰かにこの写真を見てもらって、という未来。
一方、出来上がった写真は、常に過去の状態を写している。

“今”この時を、瞬間を、1枚の写真に記録する、閉じ込める。
それが、写真であるのに、“今”が欠如している。
カメラで写真を撮るとは、そういうことだ。

僕には、子どもの頃の写真がほとんどない。
母子家庭で貧困で親が忙しく、写真を撮る余裕なんてなかったのもあるだろう。
僕自身、子どもの頃から現在でも、写真に撮られるのはあまり好きではないし。
でも、ほんの少しだけある写真を見ると、当時の記憶が蘇ってきたり、全然記憶になくても、改めてこんなときがあったのかと、感じ入ることがある。

中学2年で転校した僕は、転校前に何部だったのかよく覚えていない。
完全なる陰キャだったしスポーツは敵なので、文化部なのは間違いない。
たしか、帰宅部で名目上は科学部だったような…。
でもひとつだけ覚えているのが、写真部に混じってやったこと。
真っ暗の暗室の中に入り、赤いライトを灯す。
経験したことがない真っ赤な薄暗い部屋のなかで、慎重にフィルムを出し、器具に巻き付けていく。薬剤で現像をおこない、現像したフィルムができあがる。
暗室から出て、乾燥させたフィルムを確認。
次はフィルムから写真にする。
また暗室に入り、赤い世界へ。
引き伸ばし機とイーゼルに、現像したいフィルムと、写真がプリントされる印画紙をセットする。
フィルムに刻まれた像が、印画紙に焼き付けられていく。
そしてバットに入れた現像液に印画紙を浸すと、真っ白な印画紙に像が浮かび上がってくる。
白い印画紙が写真になったら、キツい酢の匂いがする酢酸が入ったバットにつけてそれ以上現像が進むのを止める。最後に定着させる液が入ったバットに漬けてから水洗いし、乾燥させればできあがりだ。
1枚の写真ができあがるまでに、こんなにやることがある。
どのぐらい露光させるか、現像させるかも、自分で決めてやる。
酢の匂いに包まれた赤い世界がなんだかとても神秘的で、写真を現像するということが、なにかの儀式のような、特別なもののように感じた。

そんな体験をしても、僕は特にカメラを趣味にすることもなく、転校してから入った部活はやはり帰宅部で名目上はたしか美術部。高校に行っても写真に見向きもせず、僕にとって写真は、「酢の匂いが漂う赤い世界」という、ある意味特別な思い出として残るだけだった。

それから10年と少しが経ち、京都をはじめ寺社仏閣巡りや車で日本旅行を始めた僕は、一眼レフのカメラを始めることにした。
古い建築や、神秘的な神社、山や滝などの自然を、良い写真におさめたくなったのだ。
当時はまだ、コンパクトデジカメは普及し始め。一眼レフのデジカメは、100万円くらいするプロ用が出始めた頃。
当然そんな物を買えるわけもなく、ミノルタの一番安いエントリーモデル「MINOLTA α-SweetII L」を購入した。
独学で自分なりに写真の撮り方やカメラの使い方を勉強し、いろいろと撮影した。
一番凝っていたときは、よく見る白黒反転した「ネガフィルム」ではなく、写真のまんまに見えてそのままスライドにも映せる「リバーサルフィルム(ポジフィルム)」を使っていた。
これが、めちゃめちゃ高価。
1枚100円くらいする。
しかも現像も1枚100円。
「写真」として手元に残すには、1枚200円くらい掛かるというかなりお金が掛かる趣味となった。
ネガフィルムとリバーサルフィルムの写真の出来上がりの違いなんて分かりゃしないのに、形から入り、なにかそれなりのカメラマンになった気分になるために、お金をはたいていた。
さらに、フィルムはかさばる。撮影旅行ともなると、いくつもダース買いしたフィルムの箱がバッグを占拠する。ISO感度はフィルムによるから、本来なら場面に応じて変えたいのに変えられない。白黒を撮りたかったら白黒用のフィルムに変えないといけない。でもフィルムは1巻撮り終わるまで開けられず交換できない。
今から思うと、フィルムカメラというのはとんでもなく不便でお金のかかるものだったのだ。
形から入り熱しやすい僕は、初心者用の一番安い一眼レフなのに高価なフィルムを使い、お寺や神社を撮影した。

しばらくすると、僕は違和感を覚え始めた。
「写真しか撮っていない」
僕はなんのためにここに来ているのだろうか。
今、目の前に、1,300年立ち続ける塔がある。
今、目の前に、悠久の昔から滔々と流れ落ちる滝がある。
そんなものを目の前にしているのに、僕の頭の中は、
「あそこから撮ったらいいアングルになりそうだ」
「シャッタスピードはこのくらいで…」
「フィルムの残りがこれくらいだからここでは何枚くらい撮れる…」
と、撮影のことばかり。
そして撮り終わると、満足して自分の目でろくに見もしない。
写真には残っても、心には残らない。
「撮影に来ている」と言えれば、それでいいのかもしれない。
でも、“今”を生きていない感じがして、だんだんと嫌になってきた。
頭をからっぽにして、今この瞬間を、大自然や、文化を感じたいのに、頭の中が忙し過ぎる。
マルチタスクができない僕には、今と写真の両方を満足に楽しむことができなかった。
そして、奈良にある談山神社の十三重塔を見ながら、カメラをやめた。
コンパクトなデジカメすら持ち歩くのをやめた。
観光地や寺社仏閣の写真なんて、プロが撮影した素晴らしいものが売っている。
数年後、頭のリソースを使わずメモ代わりにラフに撮るコンパクトデジカメを購入するまで、寺社仏閣巡りも自然も、写真に残さない旅をした。

当時、携帯電話にカメラが付き始めてはいたけれど、まだまだデジカメの代わりになるほどではなかった。そういえば一番はじめにカメラが付いたJ-フォンの携帯をなぜか持ってた。発売されたのは、ちょうどバンドをやっていた頃だった。

そんな感じで、僕にとってカメラはメモ帳代わりとなった。
記録として写真を撮る。
アートやいい写真を撮ろうとするのではなく。
そういう邪念が生まれると、脳のリソースを持っていかれてしまうから。
今もスマホで撮るときは、スマホを出してパシャッとすぐに撮る。
妻にはラフに撮り過ぎと言われるけど、メモだからいいのだ。
でもブレまくりやピントがまったく合っていなくて「削除」するしかない写真ばかりのときは、ちょっと反省する。

だけどもやっぱり、いい写真を撮りたいと思うときもある。
一眼レフをやめてから10年後くらいに、ちょっといいカメラを買った。
富士フイルムの単焦点デジカメ。
一眼レフではないけど、それに近い画質。お値段もそこそこ。
でもズームが出来ないから、脳のリソースがそれほど持って行かれない。
今でもたまに使って撮影すると、画質の良さにニンマリする。
単焦点だから裏庭に遊びにくる野鳥や、空の星や月を撮影できなくて、ちょっと残念だけど。

昔撮った写真を見ると、当時のことを思い出す。
そこに写った被写体は、当時のままだ。
今はもう会えなくても、心の中と、写真の中でだけ、また会える。
写真に“今”は無いはずなのに、いくつもの過去の“今”が、今、目の前に現れる。
写真に、過去の“今”が記録されていることが、悲しくもあり、嬉しくもある。

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