僕には父親の記憶があまりない。

僕が8歳くらいのときに蒸発してそのままだ。
8歳なら十分覚えてるでしょって思うけれど、その前から父はほとんど家にいなかったし、僕に幼少期の記憶があまりないから。

かろうじて覚えているのがいくつかあるけど、それが事実だったのか夢だったのかわからない。その程度だ。
父は兄たちにはかなり厳しかったようだけど、当時は僕が末の息子だったから、僕には甘かったみたい。妹たちにどうだったのかは、まったく覚えていない。
甘やかされていたらしい僕は、父があぐらをかいている膝のうえに座っていた、という蜃気楼の彼方で霧の中にかすかにみえるような記憶がある。あぐらの上がお気に入りの場所だったのか、自分でよじ登って行ったような、違うような。そこは畳敷きの小屋のようなプレハブのようなところで、床にはビール瓶が転がっている。その小屋は、高原の明るい森の中にある。そんな記憶、それだけの記憶だ。これがいつのことなのか、どこなのか、真実なのかすらわからない。
もしかしたら、白樺湖のあたりなのかもしれない。
幼少期の記憶の中に、なぜか「白樺湖」という単語が浮かび上がってくる。家族で行った最後のお出かけだったのか、父がその辺で仕事をしていたのか、まったくわからないけれど。ワンボックスのバンで出かけたのかもしれない。

父はワンボックスのバンに乗っていた。大工なのか、便利屋なのか、なにか現場系の仕事をしていて、たぶんひとり親方みたいな形で、その仕事で使っていたバン。兄弟が多かったから、一度にみんな乗れてちょうど良かったのもあるだろう。
このバンの記憶は、ある夜車で走っていて、僕は後部座席の右側に座って空を眺めていた。綺麗なまん丸い満月がぽっかりと浮かんでいて、車が走っても走ってもそいつが付いてくる。同じ距離で。とても不思議で、ずっと眺めていて、でもわけがわからなくて怖くなって、「あいつ付いてくる…」って泣いたような、そんな記憶がある。でも、正直に言えば車を運転していたのが誰なのかまったく覚えていない。母は運転免許を持っていないから、父だったんだろうけど。
子どもの頃の車の記憶はあとひとつだけ。その何年か後だと思うけど、なんでなのか忘れたけど小学校のクラスメイトの小川君が、お父さんと車で僕を砂利道の集落にある家まで迎えに来てくれた。小川君はその車をとっても気に入っていて誇らしげに「スカイラインって言うんだ!」って。白い車体に黒いライン。僕は車にまったく興味がなかったから、心の中で「黒い線なのにスカイライン… 空どこ?」と不思議に思って、車体のまわりをしげしげと見て回った。どこを見ても白と黒で、空の要素はなかった。なんでスカイ?これは父の記憶と関係ないな。

父がやっていた現場系の仕事の資材置き場が、自宅から子どもの足で徒歩10分くらいのところにあった。僕たち兄弟はたまにそこに行って遊んでいた。覚えている危険な遊びは、資材らしき鉄板を工具らしく金切りばさみで切って、手裏剣を作る。といっても手裏剣の形に切るだけ。それをシュッと木に向かって投げると、上手くいくと木に刺さるのだ。それだけのことが楽しかったから、よく覚えているのだろう。危ない。後は針金を切って尖らせて組み合わせてマキビシを作ったり。これも危ない。
同じ頃ほかの遊びで、その置き場からシャベルを持ってきて、近くにある小川に行っていた。その小川をドブ川と呼んでいたけど、今思えばたぶん用水路かなんかだったのだろう。ドブ川の川岸は乾いた土になっていて、ちょっとした砂漠のようだった。僕たちは持ってきたシャベルで自分が寝て隠れるくらいの穴を掘り、ミイラのようにそこに寝転がって遊んでいた。何が楽しかったのだろうか…。
川にはウスバカゲロウが飛び、近くの砂地ではアリジゴクが住んでいて、小さなすり鉢状の巣をずっと観察していた。ハサミのような凶悪なアゴをもったずんぐりとした1cmくらいの砂色の怪獣が、たまにすり鉢の一番下から出てくる。巣から出して砂地に置いておくと、大きなアゴで砂をピュンッ、ピュンッっと飛ばしながら、後ろ向きにぐるぐる渦巻き状に進んでいき、数分ですり鉢状の巣ができあがる。獲物がアリジゴクにはまるまで巣穴に隠れてじーっと待つ。面白い生き物だった。
同じ頃、家の近くの砂利道で、長さ20cmくらいの小さな細い蛇を見た。なんだこれーっとしゃがんでみると、頭が2つあった。胴体は一本で、首から上が2又に分かれていてそれぞれにちゃんとした頭が付いてる。しばらく眺めていたけど、あれは夢だったのだろうか…

と、父とまったく関係ない話に逸れてしまった。

僕が覚えている父の記憶はあとひとつだけ。それも痛かったから覚えているだけ。
なぜだか理由は知らないし、前後のことを覚えていないけれど、僕は父のバイクの後ろに乗っていた。スーパーカブみたいなバイクだったと思う。地元の細い道を走っていて角を曲がったときに、僕の足がバイクの後輪に巻き込まれた。巻き込まれたと言ってもスポークのホイールだから、ホイールの中に足は入らない。子どもの小さい足でも物理的に不可能だ。高速回転しているタイヤのスポーク部分にぶつかりはじかれたのだろう。くるぶしのあたりに大きめの怪我をしたのに、病院に行った記憶はなく、今でも傷跡が残っている。

以上が僕の記憶にある父のすべて。といっても本人が出てくるのは、あぐらとバイクだけ。それも記憶の中には顔がなく、首から上は靄がかかっている。顔は写真で知っていて後から合成されているだけだろう。
あと覚えているのは、指笛と草笛。父はよくやっていたような気がする。両手の小指を口の両脇に咥えてビューっと音を出し、なにかのメロディーを奏でる。そこに生えている葉っぱをちぎって口に当て、ピィーっと音を出す。どちらも僕はフーッとフーッと息が漏れるだけでいい音は出なかった。


父が蒸発した後は、母が大変そうだったのをなんとなく覚えている。警察に捜索願を出したり、いろいろしていたみたいだ。僕は子どもだったし、あまり会話もない子だったから、母と誰かが話しているのをなんとなく小耳にはさんだ程度の情報しかなかったけど。
借金だけ残してタイに女を作って逃げたとか、そんな感じだったかな。
8人の子どもを抱えてシングルマザー。当たり前だけど母はとても苦労をした。母は生きるために稼ぐだけでも精一杯で、しつけや教育なんてものはほとんどなかった。それもあってか、僕は相変わらずぼーっとのほほんと子ども時代を過ごした。

そんな僕は思春期になっても、異性への興味があまりなかった。自分が誰かを好きになるとか、誰かとお付き合いをするとか、考えたこともなかった。思春期も後半になってから、考え始めた。
「母と子どもたちを捨てて逃げた男の血が、僕には半分流れている」
これは、僕を縛り付ける考えだった。
自分で作った呪縛だった。
この呪縛は、大人になってからも続いた。
僕が異性関係についてかなり消極的で奥手だった原因のひとつでもあるだろう。何かアプローチをかけられているような状況になっても、僕は逃げた。異性と深い関係になりたくなかった。お付き合いするとかそういう状況になっても、「結婚はしない」と公言していた。結婚をしたいとか、子どもが欲しいと思ったことは一度もない。
だからといって、父を恨んだり、あいつのせいだ、と思ったこともない。ただ事実があり、そこから自分が、自分の性格の原因を勝手にこじつけただけ、という自覚もあった。

父が蒸発したときの年齢を自分が越えると、自分ひとり生きるだけでも精一杯なのに、8人も子どもがいたら逃げたくなるのもわかるよな、とも思った。結局自分の人生なのだから。
子どもの頃に読んだ漫画『MASTERキートン』に出てきた次のセリフを思い出す。

「一人の人間が自分以外の人のために、人生の幸せの何分の一かでも犠牲にすることは、大変なことなんだ。たとえ、親と子でも…」  
『MASTERキートン 第3巻』小学館、1989 

主人公のキートンが、母親との関係に悩む10歳の少女に優しく語りかけるシーンで、なぜかとても心に残っている。

そして僕は、一度会ってみようと思った。
父は僕たちを捨てた後、あちこちを旅して東南アジアに住んでいることがわかっていた。一体彼は僕たちを捨ててそんなところで何をしているのか、その現場を見てやろうと思った。
彼が拠点としている村の名前はわかっていたから、ちょくせつ行ってみようと飛行機のチケットを取った。それから村の名前を教えてくれた次兄に連絡すると「あの人今日本にいるらしいよ。脳腫瘍だかなんだかで入院してるんだって。」とのこと。病院行く?とも聞かれてけど、僕は現地を見たかっただけで、日本で会うのはなんか違うな、と思って行かなかった。病気が脳腫瘍だからもう会えないかもしれないともなったけど、それならそれで別にいいや、程度だった。飛行機のチケットを取ってしまったから、普通に観光ひとり旅だけして帰ってきた。

そして翌年、次兄に連絡を取ってもらって、今度はアポを取って現地で会うことになった。僕は37歳になっていた。おそらく父は、僕たちからなんらかのアクションがあれば、拒否をしないことを自分に課していたのだろう。
再び現地に降り立った僕は、プリペイドの携帯電話を買って父に連絡を取り、翌日市内のゲストハウスで待ち合わせをすることになった。父が特別講師をしていた大学のボランティアに来ていた大学生たちを送るために空港のあるこの町に来ていたらしい。活動をしていた村ではなく、この町のゲストハウスで会うことにした。どのような活動をしているのかも見てみたかったけど、それほどのこだわりはなかった。
待ち合わせのゲストハウスは、僕が泊まっていたゲストハウスのすぐ近くだった。約束の時間に入っていくと、入口の揺り椅子に座っている小さなおじいさんがいる。写真で知っている父の老けた姿だった。三兄によく似ている。
「おー、〇〇か?え?本当に〇〇?大きくなったなぁ」
僕は身長182cmになっていたし、父は膝の上に乗っていた小さな僕しか知らない。顔も母親似なので父にはあまり似ていない。驚くのも無理はなかった。
僕も横の揺り椅子に座り、異国の赤茶けた大地を眺め、ゆらゆら揺れながら少しお話をした。
この時はじめて、お姉ちゃんはこの人の子ではないということを知ったり、妹たちからは恨み辛みのこもった手紙を受け取っていたことを知ったり、この地で何をしているのかを言葉少なに聞いた。口にはしていなかったけど、母と僕たちを捨てた十字架を背負って生きてきただろうことを感じた。
僕は「僕はあなたを恨んでいない」ということを伝えた。
その後父の行きつけのお店まで少しお散歩をして朝ご飯を食べ、トゥクトゥクに乗ってしばらく走り、父の20年来の友人の村まで行き、自生した蓮が咲き乱れる池を眺めながらその人と3人でお昼ご飯を食べ、夕方ごろ父を空港に送った。ご飯代もトゥクトゥク代も、これぐらいは払わせてくれ、ということでごちそうになった。
トゥクトゥクはそのまま僕が宿に帰るのに使うので、空港の入口でお別れだ。特にハグをしたりとか大げさなことはなく、じゃあ元気で、程度。でもたぶんお互いに、もう生きているうちに会うことはないだろう、ということも分かっていた。赤茶けた大地にどんどん小さくなっていく背中を眺めながら、あの指笛の音が聞こえた気がした。

帰国して5年くらいがたち、自分で作った呪縛から解けたのか、なぜか僕は結婚した。子どもはいらないというのは変わらないけれど。
その後やはり父とは会うことも連絡を取ることもなく、再会してからおよそ10年後に父は亡くなった。亡くなってから1年くらいしてから、たまたま記事になっているのに気づき知った。母が亡くなる4ヶ月前だった。

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