僕がベジになってから
僕は、ベジタリアンになった。
前のエッセイに書いたとおり、なんとなく、ぼんやりとした理由で。
肉を食べなくなってから、ベジタリアンって何?と考えはじめた。
そもそも僕は、肉食だと言われていたのだ。
自分では肉食なんて自覚はなかったけど、いつか誰かに「ほんと肉食だよね」と言われたことを覚えている。誰に言われたのかも、いつ言われたのかも覚えていない。でも言われたことだけは覚えている。ってことは、そのときの僕はそう言われたことが記憶に残るくらい、意外だったのだろう。
ベジタリアンになった僕は、食べられるものの少なさにびっくりした。
肉エキスまで気にしだしたら、ほとんど何も食べられない。
当時はまだ、ベジメニューなんてものは世間にほとんどない。
この時僕は32歳。
モスバーガーがソイパテのメニューを展開するのは、まだ10年近く先の2015年、やよい軒が大豆ミートのメニューを始めるのは、もっと先の2022年。
当時、杉並区の浜田山に住んでいたけれど、ベジタリアンメニューを展開している店なんてなかった。
他のベジタリアンのひとはどうしているのだろう。
コミュ障なくせに、たまに驚くほどの行動力を見せる僕。
WEBをさまよい、ベジタリアンの団体を見つけ連絡を取ってみた。
その団体の代表さんが丁寧に返信をくれて、月1の集まりに参加してみることにした。
集まりといっても、行きたいひとがベジタリアン対応の飲食店に行って、みんなで食べて解散するだけのゆるい集まり。
僕が参加したのは鎌倉のお店だった。
参加者は10数名で、やはり女性が多い。
代表さんは少しふくよかで、雰囲気も態度も柔らかいアラサーくらいの男性。
肉を一切食べなくても量食べれば太る、だそうで、そりゃそうだよね。
取材等もありベジ対応のお店によく行くので、必然的に太ってしまう、ある種の職業病だそうだ。
完全ビーガンで服装や持ち物も含め動物性のものは一切身につけていない。
他の人は顔も名前もなにも覚えていないけど、話していた内容はいくつか覚えている。
まず倫理的な理由からベジタリアンになったひとよりも、健康や美容目的のひとが多かった。
食べるものも白米ではなく玄米。後日玄米試してみたけど合わなかった。白米が美味しすぎるのが悪いね。
あとはマクロビオティックのような、厳密にはベジタリアンじゃない食思考のひとたち。
倫理的な理由でベジになったひとはかなり徹底していて、マクドナルドや焼き肉屋の横を通って臭いがしただけで気持ち悪くなる、とか、商品自体は非動物性でもその製造会社が動物実験をしている場合は買わない、生体販売をしているホームセンター等のお店は一切利用しない、などなど。
最後にお姉さんが持参してきたビニール袋から取り出したオクラを皆さんに配り、ポリポリ食べ始めた。家庭菜園だかなんかで自分で作ったらしく、とても大きなオクラだった。ネバネバ系が少し苦手な僕だけど、「いりません…」なんて言えるわけもなく、「あ、すいません」「お、美味しいですね…」と、苦手なことがばれないように頑張って食べた。
そんな集まりを離脱した僕は杉並の自宅に帰り、疲れ果てて泥のように眠りについた。
白米美味しい。
その団体とはその後も関わることになるけど、それはまた別の話としよう。いや、その団体への文句にもになってしまうから、書かないかな。
僕は今でも、マクドナルドの横を通っても気持ち悪いとは思わない。
妻が横で食べていてなんとも思わない。
美味しそうな匂いだな、と思うこともある。ただそれは、食欲や肉が食べたいという気持ちではなく、変な言い方だけど理性で思う。
たぶんAIと一緒だ。
これは「美味しそうな匂い」とインプットされているから、その匂いを「美味しそう」と機械的に判断しているだけで、欲しいわけでは全然ない。
僕はベジになってから、肉が食べたいと思ったことが一度も無い。
つまり、「食べたいけど我慢」をしたことは一度も無いのだ。
どうやらASDの特徴のひとつらしい。
タバコもそうだった。
25歳のときに、アレン・カー『禁煙セラピー』を読んだ僕は、その日から一度もタバコを吸っていないし、吸いたいとも思っていない。だから僕は、「禁煙」をしたことがない。タバコを禁じた意識はまるでなく、「卒煙」したのだ。
僕はずっと、これは「意思が強い」からタバコをやめられたのではなく、「意思が弱いから」アレンにあっという間に洗脳されて、タバコをやめたのだと思っていた。
でもたぶん、意志の弱さではなく、ASDの特性だったのだ。
肉も一緒で、「禁肉」をしたことは一度も無く、「卒肉」したのだ。
ただこの18年間、一度も肉を食べなかったわけではない。
意識してではなく、知らずに食べてしまったことは、何度かある。
その後は凄い胃もたれになり、ずっと胃が重い。肉という食べ物は、とても重たいものだと知った。
ベジになると、他の人と食事に行くときに困ることになる。
僕はエキスや魚はOKなゆるベジなので、それほどではないけれど、やはり選択肢は少なくなる。
焼き肉関連はもちろんいかないし、ファミレスは肉ばかり。日本の飲食業やスーパーのお惣菜等は、ほんとうに肉が入っているものばかりだ。
そんなとき僕は、「肉を食べると気持ち悪くなるんだよね」と、嘘ではないけど本当でもない理由を言う。
肉は重いので食べると気持ち悪くなるのは本当だ。
でも厳密には順番が違う。
本当は、食べなくなったから、食べると気持ち悪くなるようになったのだ。
でもだいたいはこの理由でOKだ。
それでも聞いてくるひとや、親しいひとには、前のエッセイで話した「殺せないし解体できないのに食べるのに違和感を覚えたから」という理由を話している。
本当の理由は「なんとなく」だと話したけど、それはきっかけのはなしだ。
今は違う。
人がベジタリアンになる理由は、大きく分けると3通りある。
「宗教、健康(美容)、倫理」だ。
僕の大先輩、いにしえのベジタリアンのひとつは、古代インドのジャイナ教徒たちだ。アヒンサー(非暴力)に基づく菜食主義で、殺すことで魂が汚れるため、可能なかぎり生き物を殺さない。取ったら死んでしまう根菜も食べないし、そのほかの植物も尊重し可能なかぎり傷つけないように収穫するという徹底ぶり。
同じ頃、古代ギリシアのピタゴラス学派は、「死んだら人間も動物に生まれ変わるんだから、食べるのは同族殺しだ」と説いた。輪廻転生というスピリチュアルなベジだ。
これらから2000年以上の時を経て、近代的な倫理ベジが生まれた。自分の魂が汚れるから、とか、同族は殺したくないから、ではなく、動物自体に尊厳や権利があるから食べない、というある意味純粋な倫理観からの菜食主義で、今の僕はこの倫理ベジだ。
きっかけは「なんとなく」だったけれど。
順番が逆だけど、食べなくなってから、いろいろ考えて、いろいろ学んだ。
なんとなく食べなくなった僕が、本当はなんで食べないのかを、知りたかったのかもしれない。
この数年前に、愛犬と約束したことも思い出した。
「これからは、犬のために、動物のために生きる」って。
そして、どうでもいい僕の「美味しい」という一瞬の快楽のために、なぜ動物たちが苦しまないと、死なないといけないのか、とか、いろいろ考えた。
といっても、胸を張れるわけでもない「ゆるベジ」のままだけど。
勉強するなかで、魚にも知性や個性があり、痛みを感じていることがわかった。
それでも僕は魚を食べている。
少しの罪悪感を感じながら。
いつか魚や肉エキスまで、やめられるかな…
ほんとに僕は、意思が弱いな。
魚を食べる自分を許せないわけではないけど、肉を食べない自分を誇れるほどでもない。
こんな不完全なままでいいのだろうか。
いいんだろうな、いや、悩んでるって事はだめなんだろうな。
このまま答えなんて、でないまんま、歩いていくんだろうな。
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