エッセイのエッセイ ーエッセイとは自慢話なのかー
エッセイを書き始めて、ちょうど2ヶ月。
なんとなく自分に課した1日1話を達成した。
「ストックがない!」って思うときもあるし、他の事がおろそかにもなりがちだし、今後は1日1話更新は崩れると思う。そして一度崩れると…。
2ヶ月を記念して、自分にとって「エッセイ」とは何かを考えてみよう。
「エッセイに関するエッセイ」メタ・エッセイだ。
「エッセイとは自慢話のことである」
という井上ひさしさんの言葉を、エッセイストの酒井順子さんは、そこここで引用されている。
とてもお気に入りのフレーズのようだ。
文学もまともに読んだことがなく、エッセイを読み始めてからまだ3ヶ月の僕は、寡聞にしてどちらもまったく聞いたことがないお名前だった。
酒井さんは、ほぼほぼエッセイだけで生きてきた生粋のエッセイストらしい。エッセイストって、文学者や学者や芸能人が本業の人の副業でやってることが多いのに、すごい。
エッセイは、自慢話なのだろうか。
井上ひさしさんによれば、エッセイは感受性の自慢。
- 自分はこんなふうに感じ取れた
- こんな微妙な感情を見つけた
- こんな見方ができた
これをうけて酒井さんは、次のように述べている。
この定義に、私ははっとしました。自分もまた、「こんな視点って、ちょっと気が利いていますでしょう」とか「こんなにいろいろと調べてみたのですよ」といったアピールを込めつつも、それがばれないように日々、文章を書いているのだから。
たまに「ちょっといいこと」を書けば「私、実は善良なところもあるんです」というアピールになり、露悪的に書けば「自分の悪いところも隠さずさらけ出すことができます」ということに。
酒井順子『日本エッセイ小史 人はなぜエッセイを書くのか』講談社、2023
なるほど確かに、と思ってしまう。
でも、本当にそうだろうか?
ただ趣味で独学でエッセイを始めたばかりの僕が考えてみよう。
話の内容を分類してみると、次のように分けられる。
自慢
- こんな凄いことをした → 自分にはこれだけの実行力がある・あのときの自分を超えた
- こんな体験をした → 人生の引き出しがこんなにある
- こんな見方ができる、価値観をもっている → 自分ならではの視点がある
- こんなに感情を揺さぶられた → それだけ本気で向き合っている・生きている実感がある
- こんな友だちや家族がいる → 人に恵まれている・人生は豊かだ
- こんなに頑張った → ここまでやり切れる力がある・自分は自分を裏切らなかった
- こんな選択をした → 自分の判断軸がある
- こんなに自分をコントロールできる → 感情や行動を自分で選べる
- こんなに好きなものがある → 人生を楽しむ力がある
不幸自慢
- こんなつらいことがあった → それを乗り越えた自慢
- こんな失敗をした → そこから学んだ自慢
- 今凄いつらい → それだけ本気で向き合っている、今が変わる転換点かもしれない
- こんなに孤独だった → 一人でも立てる強さがある・自分と向き合い切った
- こんなに誤解された → それでも自分を貫いている
- こんなに運が悪かった → それでも続けている自分がいる
- こんなに大きな挫折をした → それでも続けている・それだけ頑張ったということ
- こんなに自信を失った → 少しずつ取り戻している
- こんなに遠回りをした → 自分だけのルートを歩いてきた
自虐風自慢
- 自分はこんなにダメなやつ → 自分のダメなところもさらけ出せてえらい
- 自分はこんなに優柔不断 → それだけ慎重に考えている
- こんなに飽きっぽい → 色々試せる行動力がある
- こんなにめんどくさがり → 効率化を考えるのが得意
- こんなに人見知り → 深い関係を大事にする・普通じゃない自分すごい
- こんなにこだわりが強い → クオリティに妥協しない・違いがわかる
- こんなに失敗ばかり → 挑戦回数が多い ・くじけない
- こんなに考えすぎる → 洞察力がある・頭がいい
- こんなに要領が悪い → 一つ一つ丁寧にやる
たしかに、どんな内容でも自慢になっちゃうとも言える。
でも、これはエッセイに限らない。
こんなこと言い出したら、日記だって、日常会話の雑談だって、全部自慢になっちゃう。
例外は「今日は晴れ」「明日のMTGは何時」みたいな事実確認ぐらい。
それだってうがってみるならば、
- 今日は晴れ → 天気を気にする余裕がある・天気に合わせて対応できる
- 明日のMTGは何時 → ちゃんと確認できるオレ仕事できる
つまり、「エッセイは自慢話である」というのであれば、「エッセイも会話も日記もブログもSNSも全部自慢話である」も同時に認定することになる。
そうなると、もう「エッセイは」とあえて言う意味がなくなってしまい、「エッセイは自慢話」なんて言う意味が無い。
でも「“特にエッセイは”自慢話である」とは言えるかもしれない。
だから、そもそもエッセイとはなにか?を考えてみよう。
エッセイの多くは、自分の体験を元にしている。
ノンフィクションの私小説のようでいて、物語ではなく自由に書くものだ。
エッセイの特徴のひとつは「体験」そのものを重視せず、その体験による作者の「解釈」がメインであること。「何がおきたのか」よりも「それをどう捉えたか」。
事実を記載した記事や日記との違いだ。
「おー、こんな捉えかたをするのか」という、自分の個性やオリジナリティーが、読者に伝わる。
もうひとつの特徴が、「結論」ではなく「過程」を重視すること。
論文やレポートのような「よって何々である」といった「結論」は必ずしも重要ではない。
むしろ、「ここでこう考えて、でもここが違くて、こう考えた」という、「思考の過程」が重要。これが、「この人はこういう考え方をするのね。でも私は…」、という読者との対話ともなる。
さらに、自慢話かどうかで、文章の形や構造も変わる。
自慢話は評価が欲しい、相手の思考を閉じている形。
エッセイは評価を取りにいく形ではなく、読者の思考を開く形になっている。
自慢話は、閉じている。クローズだ。
「すごいでしょ」で終わる。
これに続くのは、「へー凄いねー」とか「え?それがすごいと思ってるの?」といった自慢への感想。会話は続いたとしても、そのことについての相手の意見を聞いているわけではない。むしろ排除している。
エッセイの場合は「私はこう感じたけど、あなたはどう?」という問いかけが含まれることが多い。「あなたは?」なんて書かれていなくても、読者への語りかけ、読者との対話が、エッセイの特徴のひとつとしてある。
エッセイは、オープンなのだ。
自慢話は演出。
エッセイは思考ともいえる。
さらに、自慢話かどうかについて重要なことは、自慢をしようという「故意」があるかどうかだ。
どういう目的で、その行為をしたのか。
どういう目的で、そのエッセイを書いたのか。
自慢話は、エピソードの中から良い面を取りだし、自分を上に置いてマウントを取ることや、よく見られたい自尊心を満たすことを目的としている。それが良いか悪いかには関係なく。
エッセイは、自慢話ももちろんあるけれど、良い面だけではなく弱さや曖昧さも扱う。結果として問いが残ったり、揺れがあったりする。ある事柄について、考えたい・共有したいということもあるだろう。エッセイは上でも下でもない。
結果的に良く見えても、それを目的にしてないなら、故意じゃないなら、自慢ではないのではないか。
「いや、無意識に自慢してるだけでは?」
「本音では承認欲求あるでしょ?」
って言われたら「それ、あなたの感想ですよね」とは言わないけど、無意識や深層心理なんて言い出したら、もう何を話しても論じても意味がない。
無意識下でどう考えていたかなんて、精神科医でも何回も面談してから判断すること。
故意の認定は、犯罪なら「認識」と「認容」が両方満たされる必要がある。
「自慢」でいうと、これは自慢になるという認識と、これを書いたら自慢になってしまう、自慢だと思われてもいいやという認容。これがない場合は故意ではない。
故意かどうかはとっても重要で、「刑法199条 殺人罪」では故意に人を殺害したら死刑、無期、または5年以上の拘禁刑という重い刑罰が待っている。一方「刑法210条 過失致死罪」は殺意も傷害の故意もなく不注意によって人を死亡させた場合で、50万円以下の罰金という軽い刑罰しかない。同じように人が死んだという結果でも、故意の有無でこれだけ変わるのだ。
つまり、作者に「自慢」の故意がない場合は、自慢話ではないのだ。
だけれど、こう言う人もいるだろう。
「過失だろうが、自慢したよね?」
その人から見て自慢に見えるのであれば、それはもうどうしようもない。
でも自分に故意がないのであれば、「自分は自慢しいなのか…」なんて悩む必要はないのだ。
ついでに、エッセイのもっとも重要な特徴は、読者を想定していることだろう。
読者を想定せずに書くなら、それは日記だ。
読者にたいし、自分が経験したことや考えたことを、自分というフィルターを通して提供する。
世界を、自分というフィルターで濾過して考え直して、また世界に返す。
これがエッセイだ。
エッセイの目的は「自慢・誇示」じゃなくて「探求」。
エッセイは「自分を使って考える文章」であって、 「自分をよく見せる文章」ではないのだ。
最後に、僕はなぜエッセイを2ヶ月間毎日書いたのか。
これからもエッセイを書くのか。
もちろん、それが楽しいから。
自分でも上手く書けたな、と思えるときはやっぱり嬉しい。
毎回、小さな成功体験があるようなものだし、1〜3時間で1話書けてお手軽だ。
でもそれなら、エッセイではなく日記帳にでも書けばいい。
想定読者が妻だけなら、クローズドな限定公開環境にだけアップすればいい。
なぜ僕は、世間の人にとってはどうでもいい自分のエッセイを、WEBという大海に解き放つのか。
これが、わからない。
おそらく、自分でも真正面から認めたいものではないけれど、
「自分を知ってもらいたい」という欲求。
「ここにこんな人間がいる」という傷跡。
とても上手に書けたときにはやっぱり、「どうかな?上手に書けたかな?」という他者の評価、認めてもらいたいという欲求、つまり自慢したい思いがあるのではないか。
そういったものを、この世界に残したいのではないか。
あとはちょっとでも収入になれば嬉しいな、というのもある。
そして僕のエッセイは、妻との会話の代わりでもある。
僕は饒舌ではないし、無口だし、頭の回転が遅いし短気だから、会話だと上手く出来ない。
イラッとしてしまうこともあるし、会話はキャッチボールだし妻はおしゃべりだから、会話割合は、妻9.5:僕0.5だ。
だからその代わりに、エッセイを書く。
そしてこれは、遺書でもある、と思っている。
50歳を間近にして、体調を崩したりもして、いよいよ自分が死に向かっていることをはっきりと自覚した。
僕が見ている、見てきた世界を、知りたいと思ってくれる人に伝えたい。
苦手な会話ではなく、得意な文章で、残す形で。
僕がこのエッセイをGoogleのBloggerというサービスで公開しはじめた理由でもある。
自前のサーバーにブログのCMSでも入れて自分完結で作るのも簡単だしコントローラブルだけど、僕が死んだらバックアップも難しいだろう。
でもGoogleのサービスなら、いつかは終了することもあるけれど、残りやすい。
僕は妻より長生きするんだから、意味ないけどね。
と、エッセイについて、僕とエッセイについて、ぐだぐたと考えてみた。
自慢の故意があるのか、それともただの過失なのか。そんなことは、この「傷跡」を見つけた誰かが、勝手に判断することなのだ。
「エッセイは自慢話?あー確かに、そだねー」で終わりでいいじゃん。面倒くさいやつだなぁ、と客観的に自分を見ながら、そんな視点を持てる自分ってすごいでしょ、と自慢をして終わろう。
参考
- https://allreviews.jp/review/2571/
- 酒井順子『日本エッセイ小史 人はなぜエッセイを書くのか』講談社、2023
- 『kotoba 2024年春号 特集 エッセイを読む愉しみ』集英社、2024
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