正常と病理

正常とはなにか?
病気とはなにか?
異常とはなにか?

マイノリティは異常でマジョリティが正常なのか。
正常と異常の境目は線が引かれているのか?連続的なのか?
社会や人と問題なくやり取りできる人が正常で、できない人は異常なのか。病気なのか。


僕は、人付き合いが上手くできない。
上手に、いや上手じゃなくても、当たり前にコミュニケーションを取ることも難しい。
妻が頑張ってくれているので、なんとか夫婦で生活できているけれど、僕の「難しさ」には、妻も悩んでいるだろうことは知っている。
友だちもほとんどいない。
数年連絡取っていなくても僕が友だちだと一方的に思っている人なら、ほんの少しだけいる。
仕事も長続きしない。
社会不適合と言ってもいいだろう。
これは、病気なのだろうか。異常なのだろうか。

結婚する前は、それでもいいと思っていた。
だって、別に社会と仲良くなれなくてもいいもの。
独りでもいいもの。
孤独は好きだ。
最悪、独りで野垂れ死ぬだけで、死後に誰かに迷惑をかけないために、どうしようかと悩む程度だ。
そういう考えに吹っ切れるまでは、悩んだし、辛いこともあった。
吹っ切れたと思ってからも、たまに、年に1回くらい、どうしようもなく辛く苦しくなる夜もあった。
そんな夜は、寝た。
寝れば解決だ。
その程度だ。
でも結婚してからは、少なくても妻とは、コミュニケーションを取る必要がある。
辛いのお裾分けは、よろしくない。


こんな僕は、正常なのか。病気なのか。
「正常」と「病気」の概念を変えた金字塔として、ジョルジュ・カンギレムの『正常と病理』(1943)※という著書がある。
僕が苦手なフランス哲学。
その巨匠のひとりだ。

彼によれば、正常とは統計的な平均値に当てはめることではなく、その個体がその環境でいかに生き生きと活動できるか。個体の主体性が重要で、正常かどうかを決めるのは主体そのもの。
腹囲85cm以上はメタボ、血圧140以上は高血圧、このような基準は、「統計」を「規範(理想)」にすり替えているだけ。
現代でもこのような基準は、行政上や実務上の目安として活用されているけど。


カンギレムによれば、正常かどうかは「その環境で」という条件がつく。
つまり、個体と環境が適合していれば「正常」。
していなければ「不適合」や「病」と判断できる。
環境、つまり社会だ。
僕が苦手な、社会で生きるということ。

これは、フェミニズムや、近年の障害に関する考え方としては、一般的になった。
歩けないのが障害なのではなく、歩けない人が生き生きと活動できない社会との関連によって、歩けないことが障害となる。
女性であることがハンデキャップなのではなく、女性であることで生き生きと活動できない社会との関連によって、女性が差別された状態に置かれる。
僕が人間関係が苦手なこと自体は障害ではなくて、人間関係が苦手なことで僕がやりたいことができない社会になっていることが問題。結果的にはそのような社会なのだから、僕が人間関係が苦手だということは、例えばそのために仕事をすぐに辞めてしまい生活にも困るという結果の出る障害であり、好きな歌とか、何かを習ったりやったりすることへの強い抵抗となることで、障害ともなる。
カンギレムは、「選択肢が狭まっている状態」が病理の本質だと語った。

つまり現代では、
「正常」は「自分らしさ発揮できている状態」。
「病」は「自分らしさが何らかの要因で著しく制限されている状態」。
さらに深掘りすると、次ような3つの階層の判断による。

生物学的:臓器が生存に必要な働きをしているか、という医学的・客観的な判断。
社会的:そのコミュニティで自立して生活できるか、という相対的な判断。
主観的:本人が自分の生に満足し、やりたいことができているか、という主観的な判断。

これら3つの階層の間で、個体が主導権を持ってバランスを調整できていれば正常。
つまり、どんなに人付き合いが苦手で、仕事が長続きしなくても、それでいいや、と思ってなんとかのんびり生きていれば、正常なのだ。
無理に働いて心身を壊すのではなく、それでいいやと新しい自分なりの規範を打ち立て、自分が楽しく生きられるのであれば、それでいい。
稼いでいるか、社会の役に立っているか、という社会の規範は、関係ないのだ。
自分で規範をつくり、それに沿って生きられるかどうか。
「社会のルール」から「自分のルール」へと、住む世界を切り替えた途端、病が正常になるのだ。
もちろん、ここで言っているのは、法律を破っていいとか、そういうことではない。

そして、健康とは、間違いをおかしても大丈夫な状態にあることもいう。
たった一度の失敗で生活が壊れてしまうような余裕が無い状態は病的で、たとえ辛いことがあっても寝れば解決、のように立ち直れるなら、余裕がある健康な状態。
社会や環境がどのような規範を押しつけてきても、僕は僕の規範を打ち立て、僕にはできない、僕はそれをしたくない、と言えるだけの余裕。

今は妻のおかげで、社会との関わりがとても希薄になっても生きていけている。
でも、また社会の荒波にもまれる日があっても、大丈夫なように、余裕を蓄えて行こう。
なによりも、妻と動物たちとのこの小さな世界を大切にして、今日もとぼとぼと歩いていこう。



※1943, Georges Canguilhem, "Essai sur quelques problèmes concernant le normal et le pathologique."
参考:ジョルジュ・カンギレム著、滝沢武久訳『正常と病理』法政大学出版会、2017

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