社会のルール

社会には、ルールがある。
それを守らないといけない場合もあるし、守らなくてもいいはずのに、押しつけられることもある。
ルールがあるおかげで、安心して生きていけるけれど、
ルールを守らなきゃと思うことで、心や生活が壊れることもある。

社会っていうのは、一番大きいのが世界だ。この世の中と言ってもいい。
一番小さいのは、自分自身だ。自分だけのルール。
世界、地域、国、自治体、学校、職場、友だち、集まり、団体、親族、家族。
いろいろな社会がある。
その社会それぞれに、それぞれのルールがある。
明文化されたルールもあれば、暗黙のルールもある。
なぜルールがあるのか。
なぜルールを守らないといけないのか。

社会は、理想と現実で出来ている。
理想を実現するために必要なものが、ルールだ。
でも2人以上で構成される社会は、理想も人それぞれ。
実現を目指すのは誰の「理想」なのか。
家族なら、お父さんの理想が優先されるのかもしれないし、お母さんの理想かもしれない。
お父さんやお母さんと意見が合わないのに、子どもの理想がその社会(家族)の目指す理想になるということは、まずない。子どもはまだ未熟で、正しい理想を描けないと思われているし、なにより理想を両親に押しつける権力がないから。
社会が民主主義の国であれば、その理想を決めるメンバーを決めるのが選挙だ。

では、どんな「理想」ならその社会のみんなが納得して、一緒に目指そうとしてくれるのか。
これを考える学問が、「政治哲学」。
リベラルとか、自由主義とか、リバタリアンとか、功利主義とか、そういういろいろな「理想の決め方」を考える学問。
同じ問題を法という側面から考えるのが「法哲学(法理学)」。
言い換えれば、理想を現実にするための「ルールを定める」の部分を考える学問。
あるべき法はなにか。正しい法はなにか。という「理想」の部分も考えるけど。
人間であれば誰でもが納得する理想「自然法」はあるのか。
法は必ず正しく、守らなければいけないのか。
そもそも法とは何か、ルールとは何か。

社会のいろいろな側面にそれぞれの「理想」がある。
その理想の大本、根っこの部分を法であれば「根本規範」という。
国で言えば「憲法」だ。
家族なら「みんな仲良く幸せに暮らす」みたいなことだろう。
ではなぜその根本規範を認めるのか。
それは、国なら国民の信託があるから。結局国民が決めた事だから、我が国の憲法はこうします、と自分たちで決めたのだから、それを尊重しよう、ということ。
でも社会が大きくなれば大きくなるほど、違う意見も増えるし、オレはそんな憲法認めてない、という人も現れる。最終的には結局、そういう人にも押しつけることができる「権力」や「暴力」が必要となる。そしてそういう異端者を排除する。みんなで決めたルールが守れないならこの社会から出て行ってください、となる。
家族なら、暴力が強いお父さんの意見が採用されるのかもしれないし、権力が強いお母さんの意見が採用されるのかもしれない。

ルールは息苦しい。ルールを覚えないといけないし、やりたいことも出来なくなるかもしれない。それなのにどうしてルールを決めるのか。
自分以外の誰かが決めたルールに従わないといけないのか。
最終的に暴力で押しつけるにしても、社会のほとんどの構成員が拒否するなら、そんな社会は崩壊する。
結局は、ひとりひとりが平穏に暮らしたいと思っているから。
自分の自己実現のためには、社会に最低限のルールがないといけないし、それが守られていないといけない。
頑張って貯金しても奪われてしまうのであれば、誰も頑張らなくなる。
もし人を殺そうとは絶対に誰も思わない社会があったら、殺人罪というルールはない。
「和をもって貴しとなす」
ご存じ聖徳太子が制定した十七条憲法の第一条だ。
日本人は「和」を重視しているとも思えるけど、もし本当にみんなが当たり前に和をもって生きていたのであれば、こんな条文は存在しない。これも理想であって、現実ではなかったのだ。
理想を現実にするために、最低限のルールである「法」が必要になる。
その社会でこれからも生きていきたかったら「法」は守らないといけない。
どうしても嫌な法があったら、正式な手続きで変更していかないといけない。

社会のルールは「法」だけではない。
家訓とか就業規則とか、広い意味で法といえるルールのほかにも、暗黙のルールがいっぱいある。
昭和だけではなく今でも、「男なんだから」「女なんだから」というジェンダーに基づくルールはいっぱい残っている。
ほかにも、
「人間なら…」
「日本人なら…」
「この地域に住んでるなら…」
「社会人なら…」
「大人なら…」
「50歳過ぎて…」
「子どものくせに…」
「家族なら…」
「長男なら…」
「普通は…」
さらに、例えば「会話のルール」。人が話してるときには口を挟まない。人が嫌がることを言わない。とか。
こういったルールがあることで、暗黙の役割分担があることで、社会が円滑に回るという側面ももちろんある。
でも、社会のために個人を犠牲にするものでもある。

人はひとりでは生きていけない。
山奥のぽつんと一軒家でひとり暮らしをしていても、衣食住すべて、生きていくすべてにおいて、ひとりということはありえない。道路を作ったのも、その家の釘を作ったのも、その釘の鉄を掘り出して使えるようにしたのも他人だ。なにより、ぽつんと一軒家で暮らすという自由があるのは、そういうことが許容される社会を作り維持している人たちがいるから。法がなければ、ある日いきなり殺されるかもしれないし、さらわれて奴隷にされるのかもしれない。「あの人は変人だから放っておこう」という地域の暗黙のルールができたおかげかもしれいない。

人は、様々な社会のルールに縛られ人生を送り、ときにルールを破り生きていく。
結局「平穏に暮らしたい」という願いを叶えるためにルールがあるのであれば、それを妨げるルールには従わなくてもいいのではないか。
暗黙のルールを押しつけられて、苦しくて生きていたくないのであれば、そんなルールを守る必要があるのだろうか。

この様々な社会には、無数に張り巡らされた目に見えないルールがある。そして僕のように、そういったルールが上手く読めない人や、ルールと上手く付き合えない人、それなのにルールは守らないといけないと思う真面目な人は、社会がとても辛い空間になる。社会と仲良くできなくなる。
どんなルールがあれば、そんな人でも楽しく幸せに生きていける世の中になるんだろうか。そんなことはわからないけど、とりあえずこのおうちの小さな社会のルールを守って、1日1日を大切に平穏に生きていこう。

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