歩くコミュ障
散歩が好きだ。
馴染みの道のお散歩もいいし、知らないところのお散歩もいい。
馴染みの道の場合は、同じようで違う変化に気づいたりする。
都会に住んでいたときは、お店や街の様子がくるくる変わる。
突然更地になった一角は、そこになにがあったのかまったく思い出せない。
田舎民になった今では、新たな更地を見つけると「もしかしてお店?文化来ちゃう?」と少しワクワクする。来たためしはないけれど。
今の散歩道は畑だらけだ。
「お、キャベツか」季節によって植わってる作物が少しだけ変わる。
鳥の鳴き声。
ヒバリが上空遙かな高みで忙しそうに鳴いている。
フクロウの「ホーォゥ、ホーォゥ」という声、キジバトの「ホーホー、ポッポー」という声、「コッチコイ、コッチコイ」と呼び続けるコジュケイ、「ぎゃー!ぎゃー!」と騒がしいヒヨドリ。
ああ、ヒバリのほかは家にいても聞こえるからお散歩関係なかった。
あとは富士山。
だんだんアポロの白い部分が増えていき、今度は少しずつ減っていく。
靄に霞んでよく見えない日や、くっきりはっきり見える日。
ぼっーっと考え事をしながら歩くときもある。
考えながらお散歩といえば、哲学するというか、とりとめもないことが浮かんでは消える。
たいていはメモもせず、数歩歩いたら忘れているけれど。
歩くのは、哲学をするのにもとてもいいのだ。
日本を代表する哲学者・西田幾多郎は、京都東山エリアの銀閣寺から南禅寺へ続く細道を、思索に埋もれながら歩いたという。
おかげで今ではこの道が、「哲学の道」と呼ばれている。
京大教授だった西田幾多郎氏は京都を歩いたが、高卒フリーターだった僕も京都を歩いた。
一日中観光地にも寺にも行かず、ただ京都の町を歩いていたこともあった。
歩いていると、小さな事にも目がとまる。
ふと気になることがあったら、立ち止まればいい。
気になる猫道が目に付いたら、行ってみればいい。
知らない町には、知らないものがある。
僕からみると特に異文化な京都や奈良の町は、歩いていて面白いのだ。
お札が貼ってあったり、屋根の軒先には変な瓦があったり、竹で作った犬矢来(いぬやらい)がおいてある。
奈良の民家の軒先には、「身代り申(サル)」がぶら下がる。
民間信仰や習俗が色濃く残る町に、昭和のホーロー看板がかかり、最新式の住宅が並ぶ。
舞妓さんが歩き、チャラい若者が歩き、さらに異文化な異国の方々が歩く。
特に京都はカオスだ。
ごちゃまぜ。
1000年の文化を混ぜ混ぜしてシェイクして、ひとさじ掬って適当に並べたような。
歩くと感じることができる。
自転車では速すぎて楽しめない。
そうは言っても、京都を楽しむ一番の目的は、やはり寺社仏閣巡り。
多くの人は、バスやタクシーを使って有効的に時間を使う。
今いるところから次の目的地へ、歩けば1時間、タクシーなら20分。1日を有効活用するなら、タクシーやバスに乗るのが当たり前。
でも僕は、基本的には歩く。歩くのも目的のうちだし。
仮に自転車があっても、自転車は移動が目的になっちゃう。
歩くは、歩くこと自体も大きな目的だ。
まぁ、銀閣を堪能していたらにわか雪が降り出したときは、雪の金閣が見たくて時間との勝負でタクシーに頼ったけど。
さらに、コミュ障は、歩くのが好きなのだ。
というより、歩く以外は、誰かよそ様と関わらないといけない。
電車やバス、タクシーといった交通機関は、よそ様の世界にちょっとお邪魔して、はしっこの方にちょこんといさせてもらう感じ。
自転車も、停めるときにはお邪魔しないといけない。
「歩く」は自分の世界ですべてが完結する。
もちろん公道はよそ様の世界だし、お寺さんもよそ様の世界なんだけど、最も自分の世界にこもっていられる移動手段が、歩くということなのだ。
タクシーだと、「金閣さんの入口までお願いします」「はい、おおきにー」というやり取りが発生する。電車やバスならやり取りはないけど、他人がいっぱいいて、その人たちと一時的に運命共同体というか、ある種のコミュニティーが形成される。途中で離脱するのは大変。歩きなら、そんなことがいらない。
あれこれって、自分でコントロールしないと気が済まない、ちょっとサイコパス的なあれ?
コミュ障関係ない?
まあとにかく、コミュ障な僕は移動手段では歩くのが一番好きで、出来るだけほかのひとと関わりたくない。
だから、車の整備も家電の修理も家の修繕や改修も、とりあえずまずは自分でできるかな?と考えてしまう。
この人はどこまでひとと関わりたくないのだろう。
それとも自分でも気づいていない他の理由があるんだろうか。
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