1000の窓と1000の人生
日が落ちて暗くなってから電車に乗っていると、数え切れないほどの窓の明かりが目の前を通り過ぎていく。東京から家に帰るとき、ビルの窓は白くて明るいオフィスの光が多く瞬く。少しすると、温かみのあるマンションの明かりに変わっていき、さらにしばらく経つと、一軒家の明かりが多く灯る。そのうちそれもまばらになり、家の最寄り駅にたどり着く。あの灯りのひとつひとつに、人がいて、人生がある。
これでエッセイを100話書いた。
気まぐれで始めて100日間毎日更新。
基本的には自分史エッセイ。
コミュ障でも50年も生きてるといろいろあるもので、まだまだネタは尽きない。
だけど、あの灯りのひとつひとつに、同じようにオリジナルで特別な人生があって、今も綴られている。
町ですれ違うおじさんにも、SNSで自撮りを上げているお姉さんにも、生きてきた歴史があって、いろいろな事に悩んだり、考えたり、苦しんだり、幸せを感じたり、一生懸命に生きている。子どもたちは、生きてさえいれば、これからいろいろな経験をして、新たな人生を綴っていく。
当たり前だけど、凄いことだ。
だいぶ前から、このようなことや、「自分史」に興味をもって、アプリやサービスを作ろうかと思ったこともあった。結局いつものように何もやらなかったけれど。
誰かの人生は、誰のものであっても興味深い。
人のエッセイすら、ほとんど読んだことがないくせに。
半年くらい前にエッセイに興味を持つずっと前に、読んだことを覚えているエッセイが一冊だけある。
僕がとても病んでいるときに読んだ本、岡本太郎の『自分の中に毒を持て』。
これは自己啓発本に分類されることもあるみたいだけど。岡本太郎は芸術家でもあり思想家でもあった。
20年以上前に読んだこのエッセイの中で、2箇所だけ記憶に強く残っている箇所がある。
ひとつは僧侶たちの集まりで語ったとされる、
自分自身に対面する。そうしたら、己を殺せ
という一節。
もうひとつは、"しあわせ"について言及したところ。ちょっと長いけど、引用しよう。
ぼくは"幸福反対論者"だ。幸福というのは、自分に辛いことや心配なことが何もなくて、ぬくぬくと、安全な状態を言うんだ。
だが、人類全体のことを考えてみてほしい。
たとえ、自分がうまくいって幸福だと思っていても、世の中にはひどい苦労をしている人がいっぱいいる。この地球上には辛いことばかりじゃないか。難民問題にしてもそうだし、飢えや、差別や、また自分がこれこそ正しいと思うことを認められない苦しみ、その他、言いだしたらキリがない。深く考えたら、人類全体の痛みをちょっとでも感じとる想像力があったら、幸福ということはありえない。
だから、自分は幸福だなんてヤニさがっているのはとても卑しいことなんだ。
たとえ、自分自身の家が仕事が上手くいって、家族全員が健康に恵まれて、とてもしあわせだと思っていても、一軒置いた隣の家では血を流すような苦しみを味わっているかもしれない。そういうことにはいっさい目をつぶって問題にしないで、自分のところだけ波風が立たなければそれでいい、そんなエゴイストにならなければ、いわゆる"しあわせ"ではあり得ない。岡本太郎『自分の中に毒を持て』青春出版社、1988
電車から見える窓の灯りの、そのひとつに幸せの絶頂とも言える状態の人がいて、その隣の灯りでは、今にも消えてしまいたいと辛い想いをしている人がいる。当時の僕に、なぜこの言葉が刺さったのかは分からない。
でも、今思うと、最もエゴイストなのはこんなことを言う太郎本人だと思う。
この世から辛いことが消えることはありえない。太郎の言うとおりにすると、人類全体が不幸だ。誰もしあわせを感じてはいけない。それに、どうして人類だけなのだろう。少し考えれば、痛みを感じるのは人間だけではないことはわかるはずだ。
庶民の小さな幸せすら"卑しい"と断じる。人類全体を考えろという。隣の人が苦しんでいるかもしれない、と考えることは確かに重要なことかもしれない。
でも僕は、僕が消えてしまいたいと苦しんでいたとき、隣の人がそれに引きずられて幸せを感じられないとしたら、もっと消えたくなってしまう。僕のことは放っておいて、幸せを感じていてくれた方が嬉しい。なにより、頑張って生きてきて、あるとき幸福だと思うことができた。ひとりの人間のそんな小さなしあわせを、その深さを、ちょっとでも感じ取る想像力があったら、"卑しい"なんて言えないだろう。
「自分に辛いことや心配なことが何もなくて、ぬくぬくと、安全な状態」誰もが求めてやまないこんな"しあわせ"を、彼は否定する。
誤解の無いようにいうと、僕は岡本太郎美術館の年パスを持っていたくらい彼が好きだ。今渋谷駅に飾られている「明日の神話」がメキシコで発見され、修復後に汐留で公開された時にも見に行ったくらい。だけれど、彼はどうしようも無くエリートで、激しく燃え上がる魂を持って生き続けた希有な人物で、そして、その強さを庶民には求めないで欲しい。
ちなみに芸術家としては、岡本太郎は岡本太郎を超えられなかったと思っている。彼は己を殺すことができなかった。型にはまるなと口で言いながら、自分ではそれができなかった。ピカソは、常に自分自身を越えて、亡くなるまで作風を変えていった。太郎は、自分を超えられないもどかしさを、思想家として発散していたようにも思う。
と、相変わらず話が飛んでしまうけど、100話書いたエッセイの中で、50年の人生でお世話になった人や、関わった人たちをいくつか書いてきた。たぶん、一般的な50歳の人よりも、関わった人数も深さもかなり少ないだろう。それでも、まだ書いていないことはたくさんある。
一番重要で、だからこそまだ書けないのは、愛犬テリーのことだ。
たまに少しだけ出てきたりもしたけれど、正面から書くことはまだ難しい。
あと、直近のことは書いていない。
妻のことも、たまに出てくるけれど、正面から書いてはいないし、ここ10年くらいのことはあまり書いていない。自分史を兼ねているから昔のことから書く、というつもりはなかったけれど、気づけばそうなっていた。
もうひとり、僕にとっては重要な人をひとりだけ思い出して、今回は終わりにしよう。
高校時代にお世話になった、担任の五十嵐先生。
高校2年で担任になり、高校3年生にクラス替えをするときに、「この子は私がみる」と指名してくれたと、卒業後に聞いた。といっても、僕は理系を選択して、9クラス中理系クラスは2クラスのみ。先生は数学の先生で理系の受け持ちだったから、担任になるかどうかは2分の1ではあったけど。不良なんていない普通の学校で、明らかに不良だった僕。それに、奨学金を受けているのも先生は知っていたし、学費を自分でバイトで稼いでいることも知っていた。バイトしているラーメン屋に他の先生が偶然来てしまったときも、僕がバイクから降りるところを目撃されたときも、先生が見逃してくれていたこと。窃盗で捕まって家庭裁判所に呼び出されたことも話した。
特に積極的に具体的な何かをしてくれたというよりも、ただ黙って見守ってくれた。父親がいなかった僕にとって、母以外ではじめて信頼できる大人に関わった経験だった。
卒業時に僕は就職していなかったから、整備士を始めた後に報告に行った。その後も何度か学校に行って、先生の城だった理科準備室でお茶をして、お話をした。そしていつしか行かなくなった。自分が自信をもって先生に会えるようになったら会いに行こう、そう思いながら30年が経ってしまった。当時たしかまだ30代だったけど、ご存命ならもう定年を迎えた頃だ。
ふくよかで、眼鏡をかけていて、いつも笑顔で、トトロみたいな先生。やさぐれた高校時代に恩師に出会えたことは、僕の人生で幸運だったことのひとつだろう。それ以降も、先生みたいなふくよかで笑顔の人には、少し弱い。
僕は40を少し超えるまで、心穏やかに生きるために「すべてを排除してひとり生きる道」を選んでいた。
仏教の"四苦八苦"。
"四苦"の"生老病死"はどうしようもない。病は気をつけることで少しは可能性を下げることができるけれど、その程度だ。
"八苦"の、
"愛別離苦"は、愛する者がいなければ別れの苦しみも無い
"怨憎会苦"は、人間関係がなければ憎む相手もいない
"求不得苦"は、欲しいものがなければ得られない苦しみもない
"五蘊盛苦"は、心も体も思い通りにならない苦しみ、これはどうしようもない。
人間関係がなければ、2つの苦しみは避けられるし、欲しいものだって少なくなる。
生きていて心が乱れたり、苦しかったりすることの多くに、人間関係がある。
それを避けるだけでも、ある程度は心穏やかに生きていくことができる。
だから僕は、それらを出来るだけ排除して生きてきたし、それを続けようと思っていた。
でもいつの間にか、もうひとつの道、「誰かと生きる道」を歩いていた。
愛する者との別れは何よりも辛いし、すでに何度か経験しているこの痛みを、あと10回以上乗り越えないといけなくなった。それに乗り越えたと思っても、その傷は生涯消えることはない。
だけれど、みんなとの暮らしは"しあわせ"に溢れていて、僕はなぜだか以前より心穏やかになった。
隣で苦しんでいる人がいるかもしれない、世界中で苦労している人や動物は多くいるだろう。そのことを頭の片隅に留めながらも、僕は卑しいエゴイストでありたい。
1日1話エッセイを綴るのはお休みにして、これからは気が向いた時に、綴りたいと思ったことを綴ろう。
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