バンド体験
23歳の秋、地元の大きなお祭りに会場で警備のバイトをしていた僕は、遊びに来た車好き君に「バンドやろうぜ!」と誘われ、なぜだか流されるままにバンドをやることになった。
車好き君がヴォーカル、その地元の友だち2人がギターとベース、僕がドラム。まったくやったことはないけど、弦がいっぱいあるやつより太鼓叩くだけなら出来るかなと思って引き受けた。
もちろん遊びで。
まずドラムの楽譜を読めるように本を買ったけど、これは簡単だった。ピアノの楽譜は今見ても難しい。そしてドラムスティックを買ってきて、買ったことがなかった少年ジャンプとかの分厚い雑誌をドラム代わりにパチパチ叩いて練習。これが意外ととてもうるさい。そして難しい。
二本の腕と二本の足を別々に動かす。出来るわけがない。ゆっくり「いち、にー、さん、しー」と言いながら右手で叩き、「さん」のところで左手で叩く。出来るようになったら少しずつ速くしていく。それが出来たら今度は「いち」のところで右足をドンとする。という風に、少しずつ練習していった。バンド遊びと言うけれど、その99%は個人練習が必要だった。
まずは初期パンクとして有名なラモーンズを練習。これ以上簡単な曲は無いだろ、というくらい簡単で単純。それでも僕には難しかったけど、バンドスコアを見ながらなんとか1曲叩けるようになった。
Ramones - "Blitzkrieg Bop"
たまにみんなでスタジオに集まって、この時だけ僕は生のドラムを叩ける。みんなは自宅で練習できるのに、ドラムは難しい。スタジオで4人で音合わせをして、バンド遊び。そのうち、電子ドラムを10万円くらいで購入。ゴムの板を叩くとイヤホンではドラムの音が聞こえる。ただゴムの板とはいっても、思いっきり叩けばそれなりにうるさい。ドラムの練習はやはり難しい。
何ヶ月目か経過し、ライブをやることになった。といっても地元の隣の町の小さなライブハウス?というか練習スタジオ一体型のライブ会場も一応ある程度の場所。もちろんワンマンではなく、同じような遊びのバンドが何バンドか一緒にライブをやる。うちのギター君の友だちも他のバンドで来ていて、その人は当時そこそこ売れていた女優さんの実弟だったらしい。奥さんが翌日出産予定日なのにライブに来てその後飲み歩いて飲み屋からいなくなったと思ったら道端で寝ていたような、なんというか自由な人だった。ライブ自体はつつがなく終わり、というかお客さんもみんなどれかのバンドの友だちだけで、とても内輪なまさに遊びのライブだった。
そんな遊びバンドもしばらくするとベース君がやめていった。そしてリーダーの車好き君が連れてきた新たなベースが、同じ高校だった龍君。といっても同じ高校だったよね?と言われても僕にはわからない。おそらく話したことはないし、という程度だったのに「久しぶり!」とフレンドリー。両腕にタトゥーが入っていて坊主頭、身体はがっしりしていて見た目は怖いけど腰が低い人。龍君はなんというか、遊びではなく結構本気だった。
バンド内に温度差が生じ、ただ遊びだった発起人の車好き君とギター君はやめていった。なぜか僕は残った。全然本気じゃないし、バンドでお金になればなんて一度も思ったことないのに、いつものようにただ流された。そして龍君が新しいギターを連れてきた。以前バイトで同じだったらしい。ボーカルはメンバー募集で探した。
ギター君は僕よりいくつか年上の村雨さん。とても若い頃にギター1本持って単身アメリカに渡るなど、本気でギターをやっていてギターがとても上手い。スラっと細身で小顔のイケメン、悪いこともしてきたらしいけど、僕と会ったときにはもう落ち着いていた。
ボーカルも見つかったけど、僕は全然覚えていない。たぶん今会ってもまったくわからないだろう。そこそこ真面目にバンド活動をして、オリジナル曲も作って、といっても誰が作ったのかも覚えていない。本当に僕は適当にただ流されてやっていたようだ。バンド名はベースの龍君が付けた。
ライブで覚えているのは初ライブの1回だけ。村雨さんの昔のつてでそこそこ大きな有名な箱、渋谷のクラブエイジアでライブをやることになった。ちゃんとやったはずだけどほとんど覚えていない。あまり上手くいかなかったのだろう。
この頃のバンドの事で覚えているのは、週1で戸田公園にあるスタジオに集まり練習をしていたことと、いくら練習しても自分が下手くそだったこと。リズム感も全然ない。後はバンド関係なく龍君と村雨さんとの付き合いを覚えているだけ。
当時僕は髪の毛を緑色にしたり、モヒカンにしたりしていた。モヒカンといっても、おっ立てたりはしないので深めのツーブロックにしか見えてなかったと思う。電車に乗ると母子連れのお子さんが僕を指さし、お母さんらしき人が「見ちゃダメ」っていうコントみたいなことが実際にあったり。
そんな僕とごっつい見た目で坊主頭なうえタトゥーだらけの龍君は2人である日お台場にいた。海外アーティストの来日公演がZepp東京であったのだ。少し早く着きすぎた僕たちはお台場ヴィーナスフォートをぷらつくことに。真夏だったので龍君はタンクトップ。しかも前夜の他のライブから直接来ていて、ライブでもみくちゃにされ誰かの指輪が額の上に当たり、流血していた。血染めのタンクトップのまま現れた龍君とヴィーナスフォートに入ると、数メートル後ろを警備員さんが付いてくる。話しかけてこなかったけど、外に出るまでずっと付いてきていた。とてもあの場所に似合わない2人だった。
ライブのことも曲作りもほとんど覚えていないような流されていただけの僕も、やっと気づき始める。あれ?この人本気だ。本気でバンドやってる。龍君は本気だった。だから僕は辞めることにした。あんなに下手くそでやる気もなく遊びでやっていた僕は、なぜか彼は引き留めてくれた。だけどだからこそ辞めた。その時にはもうギターの村雨さんも辞めていた。その後龍君は新しいメンバーを探し、僕の全く知らない人たちとそのバンドを続け、それなりにライブもやり、大手レーベルからCDもリリースしたり、精力的に活動を続けた。数年経って彼もバンドを抜けたらしい。車好き君が遊びで始め、龍君がバンド名を付けたバンドは、メンバーが全員入れ替わった今でも活動している。スカやレゲエ系の音楽になり、タトゥーだらけの怖いおじさんたちがメンバー。誰も初期メンバーに僕がいたことは知らないだろう。
ギターの村雨さんとは、バンド関係なく友人関係となっていた。なかなかアクティブな人で、付き合いがあった数年間だけでも、千葉→福井→愛知へと引っ越していた。ご実家は群馬で一度遊びに行ったこともあるし、千葉から福井への引っ越しは僕の車でやった。僕はその頃車で寺社仏閣巡りや日本中旅をしていた頃でフットワークも軽く、福井の永平寺や金沢観光のついでに荷物と荷主を乗せた感じだ。その後福井で嫁さんを見つけ彼は結婚。結婚式にもお呼ばれして、福井まで行った。この結婚式が僕の黒歴史で、ご祝儀を渡す、という一般常識を知らなかった。しかも和服で行ったけど、紋が付いていない和服はカジュアル過ぎるらしい。浅草寺近くの小さな和服屋さんのおじさんはそれで良いって言ってたけど。式前日にも彼の家に泊まり、なんともマナー違反ばかりをしてしまった。その後愛知に引っ越した彼ら家族は長女が産まれ、京都旅の帰りに寄って行ったのが最後に会ったときだと思う。気づけば連絡を取ることもなくなっていた。
こうして、最初から数えればおよそ5年にわたる僕のバンド体験が終了した。
ひとつ言えることは、ADHD特性がある人はドラムはやらないほうがいい。今でも気づけばリズムを刻んでいる。貧乏揺すりのように。
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