鬱と生
「発達障害30歳成人説」というものがあるらしい。
ADHDやASDの特性がある人は、脳の発達が定型発達の人と比べて0.7倍遅いとか。
それなのに定型発達の人と同じように社会に出されるから、脳の成熟がなされないまま社会で生きる期間を「魔の20代」というらしい。つまり、特に生きづらく、生きているだけでも辛い期間があって、それをいかに乗り越えるか、が重要だとか。
これを読んだとき、自分は発達障害という診断も診察も受けたことがないけれど、自分にとても当てはまるな、と感じた。
僕も、20代はとても生きづらかった。
20代半ばで病み始め、少しずつ悪化していった。
それまで、自分には感情が無いのかと思うほど心の動きがなかったのに、病んできてからは良くも悪くも、心が動くようになった。
京都や奈良で仏像やお庭に感動し、日本中を旅したのもこの頃だ。
ロマン派の絵画や岡本太郎の芸術などにも心を動かされ、よく泣くようになった。
これらは良い面であったと言えるだろう。
でも病んでいったのはもちろん良くない面の方が強く、どんどん悪化し、ただ生きているのが辛かった。
冷静な時はこの現象を知りたくて、心理学を勉強したり、宗教を勉強したり、その中でユング派の療法をおこなっている心理相談室に片道2時間かけて通ったりもした。この時はまだ病院には行かなかった。
この頃、ユング派の影響もあり、日本におけるユング派の大家である河合隼雄氏の著書にも影響され、「夢の記」を付けていた。枕元にノートを置いて、起床したら見た夢を書き留める。スーッと消えて行く前に、覚えていることを書く。
そのうち、夢だけではなく、自分が辛い気持ちをノートに書き殴っていった。
それでもどんどん悪化していき、僕は消えることにした。
歳を取った愛犬がいたけれど、彼を置いて行くことにした。
毎晩深夜になると、愛犬とお散歩をしている川沿いの道をひとりで歩いた。ただ歩いているときもあれば、無意識にいい木を探しているときもあった。
そしてその夜、ショルダーバッグを持って、愛犬の頭を撫でて家を出た。川沿いの道の、目星を付けていたサクラの木。そこのいい感じの枝に、ショルダーバッグの長い紐をかけ、首をかけた。最後の一歩を踏み出そうとした瞬間、目の前が真っ暗になった。物理的にではなく、心理的に。一瞬、死が垣間見えた気がした。そこは長い長いトンネルのような真っ暗な世界で、何もなかった。僕は恐怖に襲われ、後ずさった。しばらくそこに佇み、我に返るとバッグを回収し、彷徨い、気がつけば家の近くにいた。そこに、寝間着のままの母が走ってきた。夜な夜な家を抜け出して彷徨い歩いていたのに、なぜかこの夜だけ母は異変に気づき、僕が書き殴っていたノートを読み、外に飛び出してきたところだった。母に抱きしめられ玄関をくぐり、僕は眠そうに迎えに来た愛犬を撫でた。
それから約1年が経ち、愛犬が旅立った。
愛犬に生きると約束したけれど、気持ちの低迷は続き、遺書を書いたりもした。
愛犬との約束と、少なくても母だけは僕が死んだら悲しんでしまう。辛い半生を生きてきたあの人に、そんな辛い想いをさせてはいけない、と、母が生きているうちは頑張って生きよう、と決めた。僕はただ臆病で小心者だから、生きていられた。
その後、次兄が母のために家を買って、引っ越すことになった。
僕は働くことが難しく、しばらく働いてもおらず、兄が買った母の家に居候を続けた。
引っ越しや賃貸ばかりで、家を失い路頭に迷うこともあった母は、次兄のおかげで終の棲家を手に入れ、安心して暮らし始めた。
引っ越して早々、新しい家の明かりのスイッチに、母がマジックペンで「トイレ」とか「玄関」と書き始め、僕や妹たちに反対され苦笑いで止めたのが思い出される。そのまま書いておけば便利だしよかったのに。
僕は誰にも言わずに、精神病院に通い始めた。入院病棟もある大きな精神科専門病院だったけれど、僕の場合は1時間待ちの5分診療と言われるような、ただ薬を出して終わりという感じだった。5分もなかったんじゃなかろうか。先生の顔すら覚えていないし、何かを話した記憶もない。診断名は鬱病で、数ヶ月通って薬を飲んだけど、何も信用できず自分で勝手に行くのをやめて薬も勝手にやめてしまった。離脱症状はピリピリとしたしびれや目眩が続き、それなりに辛かったけど、再び病院に行くことはなかった。心理相談室も突然行くのをやめてそのままだった。
新しい家には小さなお庭があり、僕は庭造りを始めた。
ウッドデッキを作り、花壇を作り、隣家との間には大津垣を造り、土と植物と庭いじりに時間を費やした。兄は自分が買った家を僕が好きにしていくのを黙って認めてくれて、働いていない僕には出せない造園資材の代金は妹が負担してくれた。
引っ越してから数ヶ月して、僕はアルバイトを始めた。無職期間は引っ越し前後合わせて半年くらいだった。土いじりと、家族の静かな見守りが、アルバイトができるくらいまで僕を回復させてくれた。
妹の原付バイクを借りて、原付で15分くらいの場所にあるラーメン屋で働くことに。このお店ではそれなりに楽しく過ごす事が出来たけど、テナントやお店でトラブルがあり閉店、僕は日雇いの引っ越しのバイトを少しした後に、トラックでお酒の配送の仕事を始めた。
お酒の配送の仕事は、いわゆるルート配送だ。朝、酒卸の会社に行って荷物を積み、毎日だいたい同じ小売店にお酒を配達する。酒屋さんや、スーパーやコンビニ。午前中に1便行って帰ってきて、午後は時間次第でもう1便。午前の便は固定で、午後はその日による。僕はこの仕事があっていたのか、楽しく働くことができた。積み卸し以外は1人だし、自由だ。いつもの海沿いの道を走り、好きなところで休憩をして、馴染みのお店にお酒を配達する。無口で怖そうな酒屋の店主さんも、慣れてくるとボソッと「ごくろうさん」と言ってくれたり。それに、みんないい人ばかりだった。朝の積み込みも手伝ってくれるし、午後の2便目は時間が空いてる先輩が自主的に同乗してくれたりもよくあった。お給料変わらないしもう帰ってもいいのに。月に1度くらい数台で箱根に配達に行くことがあって、それもいつもと違ってドライブみたいで楽しみだった。
そんな生活を数ヶ月続けて31歳になっていた僕のところに、バンド時代の知り合いから仕事のお誘いが来た。杉並にある会社で新事業を立ち上げるから来て欲しいと。僕は悩んだけれど、いつまでもこの家にお世話になり続けることは出来ないし、思い切って行くことにした。辞めて東京に行くと話した時の、同僚の茶髪のお兄ちゃんの寂しそうななんとも言えない顔が目に焼き付いている。いい人たちに恵まれて、僕は少しずつ回復していた。僕が鬱になって5年くらい経っていた。
東京に出てきてからも、完全に回復したわけではなかった。
僕はフラフラしながら、迷いながら、落ち込みながら、なんとか生きてきた。
愛犬との約束と、母より先立たないという自分への誓い、そんなものも「これだけ頑張ったんだし、もういいよね」と思うときもあった。
けれど、消えてしまいたい気持ちになることは減っていったし、その深さも浅くなってきていた。
30歳成人説。
僕の脳は、やっと大人になったのかもしれない。
その後永平寺に参禅体験に行ったり、カンボジアに旅をしたり、少年時代に蒸発した父親に会いに行ったり、迷走は続いたけれど、仕事も順調になり生活も安定してきていた。
そして、42歳でなぜか結婚をした。30歳成人説なら、42歳は29歳、結婚適齢期かもしれない。
ずっと白黒だった世界に、彩りが戻ったような気がした。
ずっと僕を心配し続けた母も、安心して旅立つことが出来た。
参考
https://hachioji-hattatsu.jp/shuro-iko-shien/developmental-disorder-30-year-old-theory/
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