法の学習と学修

僕は大人になってから通信の法学部法律学科で法を学んだ。

その前に独学とはいえ行政書士試験には合格していたから、法律については初学ではなくて、実定法学(憲法、民法、刑法などの現実に効力をもつ法)はある程度学んでいた。
だから大学では必修科目を除き、実定法学よりも基礎法学(法制史、法思想史、法哲学、法社会学など)を重点的に学んだ。それと政治哲学やヨーロッパ政治思想、哲学など、法そのものよりも、その前提となる思想や人間について興味を深く覚えた。
卒論も法哲学を選んだ。

でも、行政書士受験時代と、その流れで少し勉強した司法試験勉強時代の実定法の勉強も面白かった。
行政書士の勉強はテキストを読んで過去問をひたすら解く。六法なんて開かない。
司法試験や実定法学の勉強は、基本書を読んで判例百選で判例を勉強して、たまに六法をひいて、過去問をやる。凄いボリュームだけど、だんだんとわかるようになってくる。


一番面白かったのは憲法。
憲法は実定法学だけど、半分は基礎法学だ。
「法の下の平等」や「法の支配」、「法律とは何か」「国家権力とは」といった基礎的なことも憲法学の範囲。
僕の卒業試験の副査の先生も憲法学の教授だった。
「戦力は保持しない」と言いながら「自衛隊は戦力じゃない」と「法の解釈」で運用出来てしまう適当さ。
理想を語りながら、現実は理想とはほど遠いのに良しとする矛盾。
そんなところも憲法学の魅力?のひとつだった。

ほかの科目では、民法もなかなか面白い。
この社会の基本的なルールが書いてある。
契約や財産から、やらかしたときの損害賠償、さらには家族まで民法に定められている。
「民法出でて忠孝亡ぶ」として新しい民法が批判された民法典論争。
今の同性婚や戸籍問題にちょっと似ている。
あとはここまでが親族なのか、とかうちは兄弟が多いから相続面倒くさいな、でも財産がないから関係ないか、とか。
この時勉強した基本的なことが、今でも契約書を読んだり書いたりするのにも役立っている。
でも商法や会社法は苦手。細かすぎる。重箱の隅をつつくのは面白くない。

刑法は好きな人が多いけど、僕は変なところが気になった。
例えば自殺幇助罪。自殺自体は罪ではないのに、それを幇助すると罪になる。幇助したことが罪なら正犯も罪じゃないとおかしいじゃないか。
あとはよく話題になる未成年者や心神喪失者の意思の問題。
結果と意思どちらを重視するのか。
人を殺そうとして銃を撃った。たまたま強い風が吹いて弾が逸れて当たらず何も被害がなかった。この場合、意思は風が吹かなかったときと同じなのに結果だけが違う。意思を重視するならこれも同じぐらい罰せられないといけないのに。
死の不在論も面白い。
殺人罪とあるけれど、被害者が生きているうちは必然的に殺人ではない。被害者が死んだ時点では、その被害者は人間ではなくなり権利義務の主体でもなくなるから、被害“者”自体が存在しない。という議論。古代ギリシアのエピクロスが立てた問いで、現在ではもちろん否定されている考え方。
ひとつひとつの細かいところまで気になる人がいて、それに対する反論があって、「〇〇説が通説」みたいなのがいっぱいある。
実定法を勉強していても、どちらかというと基礎法学寄りの部分が気になってしまう。

基礎法学の「法制史」は、たとえば律令制だった日本にどうやって西洋の法が受け入れられていったのか等、どうやって法が出来たのか、出来るのかを考える。法はその時代の価値観を反映する。法という手がかりから歴史を知り、歴史から法を考える学問。

そして僕が最も興味を持ったのが「法哲学」。
法とはなにか、正義とはなにか、正しい法とは、法は正しいのか、なぜ法を守らないといけないのか、法と道徳はなにが違うのか、ヤクザの掟と国家の法は何が違うのか、どこまで表現の自由で許されるのか、法が人を殺すことは許されるのか。
AIが作ったものの著作権はどう扱うべきのか、AIは権利義務の主体となれるのか、では動物は。これらを考えるのが法哲学。
とっても面白いけど専任の教授がいない大学が多いくらいマイナーな学問。マイナーだけど法の中心というか土台ともなる重要な学問。

特に興味を持ったのは、動物の権利関連のことと、自然法論。
動物のことは別の機会に譲るとして、自然法について。

正確には「自然法・法実証主義論争」。

  • 自然法:悪い法律はそもそも法じゃない。言語化される前の自然に存在する法がある。
  • 法実証主義:どんなに悪くても成立していれば法。法と正しさは関係ない。

ざっくり言えば「法に正義が必要か」という論争で、自然法はYES。法実証主義はNO。
でもそんな簡単な話じゃない。

宗教が世の中を支配していた時代なら簡単だった。
自然法=神の法
だから、聖書や聖典に書いてある。あるいは、教祖や預言者に聞けばいい。
でも宗教の権威がなくなって、何が「正しい」なのかわからなくなった。
自分たちで考えないといけなくなった。
反動として、法が正しいとなった。正しい法ではなく、法は正しい。もっと正確に言えば、正しいかどうかに関わらず法は有効である。法に正しいかどうかは関係ない。という立場。
しばらくそれで上手くいったけど、ナチスが正しく作られた法を元にとんでもないことをした。
法が必ず正しいのであればナチスがしたことも認めないといけない。
やっぱり文章になる前の「正しい法」というのがあるはずだ、となって、ではそれはなに?と考える。
どんな時代でも場所でも必ず正しいといえる普遍的な法が「自然法」。
でもそんなものはない、というか目に見えないし感じ取れないものなんだから、誰かが「ないよね」と言ってしまうと仮に自然法が存在したとしても、存在しないのと変わらない。誰も証明できないんだから。

だから今は、完全に普遍的な法はないけど、それぞれの時代と特定の社会における“できるだけ普遍的であろうとする正義の原理”はある。というのが主流。
最低限の「正しい」はやっぱりあるよね、という考え。
そのひとつが“人権”。
でもじゃあそもそも「人権」ってなんだろうね?なんでヒトだけが特別なんだろうね?っていうのが動物やAIの権利論につながっていく。

法の学修は、ただルールを覚えるのではなく、正義を追求しようともがく人間知性の積み重ねでもあった。

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