SNSが怖い
SNSが怖い。
最近のSNSのコメント欄を見ると、この世の悪意が溢れている。
見ず知らずの他人の人格を否定し攻撃するコメント。
自分の“正しい”を押しつけるコメント。
ちょっとしたことで違法ではないのに違法だと騒ぐ〇〇警察。
マウント合戦。
インフルエンサーでもないただの一般人のなんてことはない普通の投稿にさえ、このようなコメントが溢れている。
炎上が常に話題になった某アイドル(元アイドル?)さんのブログのコメントがかわいくみえるくらい。見たことないけど。
インターネット黎明期「2ちゃんねる」に溢れていた悪意のほうが、ずっとましに見える。
僕はほとんどSNSをやらないし、アカウントはあってもたまに見るだけ。
それでもコメント欄は見るのが嫌になる。
皆さん、よく続けられるなぁと、自分の豆腐メンタル具合がよくわかる。
自分が書き込んだ先に、それを読む人間が、血が通い心のある人間がいることはわかっているはずなのに。だって明らかにわかっているからこそのコメントも多いから。
昭和時代には、ブラウン管に向かって野次を投げていた。
テレビや新聞や週刊誌をみて、自分の意見を独りごちる。
たまには会社の同僚に飲み屋で、近所の人に街角で、噂話をする、誰かの批判をする。
今それと同じ感覚というか、もっと気軽に、当事者本人と全世界に向かって、悪意をばらまいている。
特に怖いのは、このひとたちが自分は正しいと信じてコメントしていそうなところだ。
自分の考えは正しくて正義で、それと違う奴は悪で、矯正してあげる自分は正しいことをしている、と本気で思っていそうだ。
エコーチェンバー現象による影響も大きいだろう。エコー、つまり反響、やまびこと言ったほうがわかりやすいかもしれない。チェンバーは小部屋というか空間。やまびこが繰り返す空間、の名前の通り、自分と似通った意見や思想だけが繰り返される空間が、SNSやインターネット上に作られる。SNSも「こういうのが好きなのね」と学習し、同じようなコンテンツばかりを表示する。自分が見たい情報だけを見て、ほかは見ない。そうすると、自分の意見が正しいと信じ込んでしまう。
何が正しいのか、わからなくなる。わかろうとしなくなる。自分で考えない。考えているつもりでも、すでに偏っている。どうすりゃいいのかね。
まだ神がいた時代には、こんなことはなかったのかもしれない。
神と教会の権威が、何が正しいのか明確に示してくれたから。プロテスタントなら聖書と牧師さん。
日本なら、お坊さんや、お上。
上の人が言うことなら正しい。
お父さん、家長、村の有力者やまとめ役。
逆に言えば、この「ご意見番」に否定された人は、そのコミュニティで生きていくことが難しくなる。
西洋で神が死んだ頃、日本でも家長の権威が落ちて来た頃、メディアが発達してきた。
新聞に書いているから正しい。
テレビで言っているから正しい。
偉い学者さんが言っているから正しい。
「何が正しいのか」の判断基準が外にあって、迷う必要がなかった。
だからまあ、騙されたり、利用されたりもした。
新興宗教がはやり、まだ精神が未熟でエネルギーに溢れた学生たちがなんらかの運動にかり出された。自分で「正しい」を考えたつもりになって。
思考停止していても、大きな問題もない時代だったとも言える。
インターネットとソーシャルネットワークの発展と、マスメディアの衰退。
外付けの「正しい」がなくなった。
誰も信じられない。
そして、自分が正しいになっていった。
「これは本当に正しいのか」ということを考えるのは、とてもエネルギーが必要だ。
前提となるそれなりの知識や教養が必要となることもある。
日々、目と耳に入ってくる膨大な情報のひとつひとつに「これは何が正しいのか」なんて考えることは難しい。
それなりに訓練も必要だ。
でも、訓練を受けていない。
「自分で考えないといけない社会」になっているのに。
だから、直観で、何も考えずに「正しい」を判断して、違う人を攻撃する。
そして、昔はその場で消えていった悪意が、SNSは残り続け、表示され続ける。どんどん拡散される。
だから余計に、悪意だらけに見える。
もしかしたら、悪意の総量は変わっていないのかもしれない。
ニュースや、近所の人の愚痴をその場で見るしかなかった時代と、すべてが残る時代。
だけれど、SNSを変えることも、社会を変えることも、僕にはできない。
僕ができる対処法は、僕がSNSとかそういうものを見ない、ということと、見ても気にしないということ。
あとは、自分が悪意を振りまく側にならないように、ちゃんと考えて生きていこう、ということ。
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