動物の権利が実現したユートピア?

さて、前回の「動物の権利ってなに」では、動物の権利が守られる世界では何が禁止されるのかを列挙してみた。

さらに進めてここでは、動物の権利を突き詰め完全に達成された社会を構想、いや妄想してみよう。それは慈愛に溢れる優しい世界なのか。
動物たちにとって、人間にとって、その世界はユートピアなのか、ディストピアなのか。

まず、「動物の権利」の根底にあるのは、「等しいものを等しく扱う」という当たり前の平等の精神だ。そこから見ると、動物への不当な扱いは「種差別」に他ならない。「種」という違いは「性別」や「人種」と同じで、扱いを変える正当な理由とはなりえない。そうであれば、「人間」は決して特別なわけではない。人間であるというだけで優遇され、人間ではないというだけで殺される。これはどう考えても正当化できない、不合理だ。というのが「等しいものを等しく扱う」を突き詰めた結果となる。
そこから近年言われるようになったのが「脱人間中心主義」。
「人間は特別だからその他の存在を利用してよい特権をもつ」という聖書にも書かれ、現在生きる多くの人間が根底に持つ思想が「人間中心主義」。
これから脱して、人間は他の存在と比べて決して特別ではない、人間であるというだけで特別扱いされるのは間違えている、という考えだ。
「等しいものを等しく扱う」から人間だけは例外としていた不合理を是正すると、結果的に「動物の権利」が徹底された世界となる。
それでは妄想を始めよう。

この世界では、人間と動物を分ける「種差別」が完全に撤廃されている。
動物を食料としたり財産としたりすることはない。
畜産は消滅するため、代替産業が盛り上がる。植物性やバイオ素材を利用した代替肉や皮革を製造する業種が基幹産業となる。
人々が食べるものは完全な植物ベースとなる。
培養肉もない。ただし、人間の培養肉を食べるのであれば、動物の培養肉を食べることもあるかもしれない。
伝統的な料理の多くが「歴史的資料」となり、味覚の基準は完全に植物ベースへと移行する。
また他の生物への影響を極力少なくするため、野菜や穀物等食料となる植物も自然空間ではなく、閉鎖され管理された工場で生産されることになるだろう。

医療にも変革が起きる。
動物実験が禁止されるため、AIシミュレーションやヒトiPS細胞を用いた「臓器チップ」による研究が残された手段となり、新薬開発のプロセスも変わる。

ペットは隣人へと変わる。
閉じ込めは許されないため、都市内を自由に動きまわる動物と、都市内に入ってこれない動物に別れる。都市空間自体も、動物が自由に安全に移動できるように変貌する必要がある。犬も猫も自由な意思で外出し、好きなところへ行く。医療は、親が子どもに受けさせるのと同じようになるか、行政がおこなうこととなる。
盲導犬や介助犬も本人の意思に反した「労働」や「使役」とみなされ、ロボット等の技術に代替される。

動物園や水族館は無くなり、バーチャル空間やロボット、プロジェクションマッピング等の技術に置き換わる。乗馬や流鏑馬、動物を使った神事等も当然なくなり、動物を不当に扱っていた「過去にあった野蛮な文化」とみなされる。
釣りも漁もなくなり、「キツネ狩り」等のブラッドスポーツを楽しんでいた過去の野蛮な風習と同等にみなされる。

問題は野生動物だ。
「人間が野生動物を管理する」こと自体不当となるため、人間に出来ることは不干渉、動物領域への不可侵が基本となる。農作物を荒らす害獣は物理的に入ってこれないようにする「追い出し」や、人間側がそこにいることを諦める「生息域の分離」による対処が必要となる。
バードストライクを無くす技術が開発されるまでは航空機の運航も難しくなる。船舶も可能なかぎり環境を傷つけない、汚さない運航を求められる。

この世界では、人間はすでに支配者ではなく、他の生物たちの隣人として、謙虚に生きることが求められる。
では、この世界で起きるいくつかの状況をシミュレートして、さらにこの世界の輪郭を浮き上がらせてみよう。

この世界で共存する動物たちがもつ「権利」は、積極的な権利ではなく消極的な権利だ。国家に対し「最低限の生活を保障せよ」とする権利ではなく、「干渉するな、放っておいてくれ」という権利。この動物たちは国民ではないため、国家は積極的に救済する義務を持たない。代わりに侵害する権利もない。

仮に、「人間の安全や健康(未知のウイルス、災害など)」と「動物の権利」が衝突したとしても、すでに「人間と動物」という「二項対立」では考えない。誰を救い、誰を隔離するかという判断は、「人間か動物か」ではなく、その個体の状況(感染リスク、重症度、周囲への影響)に基づいて行われ、種には基づかない。リソース(治療薬や避難場所)が限られている場合、種に関係なく「救える命」や「緊急性」で順位が決まる。ただし、「人間を人間だという理由だけで優先することはない」だけであって、例えば「国民を優先して助ける」「未来がある子どもを優先して助ける」という判断は当然におこなわれる結果として、人間が優先されたようにみえることはあり得る。
この世界では、「命の重さは種によって変わらない」という原則が、単なる理想ではなく、法と行政の運用基盤となる。ただしここで言う「種」とは、「感受性を持つ種」となり、おそらく前回のリストで「甲殻類」以上、または「節足動物」以上となるだろう。
また、「感受性の強さ」による差は現実にも影響を及ぼす。現在でも、いわゆる回復不可能な植物状態にある人間と、健康な若い人間のどちらかしか助けられないとしたら、客観的な答えはひとつだろう。同じように類人猿とトカゲの命をどちらかしか選べないとしたら、答えはひとつだろう。これは能力による差であって、種による差ではない。ゆえに、仮にその類人猿が植物状態であれば結果も変わる。

野生生物の「捕食者(ライオンなど)と被食者(シマウマなど)の関係」は、人間には一切関係がなく、人間による恣意的な介入は許されない。自然界の摂理にまで人間が「救済や統治を広げる」ことは、むしろ不当な介入、一種の帝国主義的な振る舞いとなってしまうから。

  • 人間社会(自国): 構成員としての権利と義務を共有する。
  • 自然界(外国): 独自の「主権(自律性)」を持つ他者。
このように構成されるため、ライオンがシマウマを襲うのは「外国の内部事情」であり、人間が正義の名の下に介入してはならないし、人間は自然界という他国の資源を奪わず、領土(生息地)を侵してはならない。そして、動物は人間の法に従う義務(積極的な市民権)を持たない代わりに、人間も動物を管理・指導する権利を持たない。

では、増えすぎた野生動物や、人間が壊した自然環境については、どのように対処するべきか。
これも、「人間と動物」「人間と環境」という二項対立ではなく、「人間」は主語にならない。
これは、戦争当事者がどれだけ修復的な賠償をおこなうか、と同じに考えることができ、ケースバイケースではある。ここでも「人間が壊したから人間が賠償する」というのは、人間を特別扱いしている。「人間が」ではなく、「日本国が」その自然を破壊し、そこに住むものたちに被害が出ているのであれば、救済する義務は日本国にある。

  • 賠償としての救済: 環境破壊によって動物たちの生存権を奪った主体(国家など)には、被害を受けた個体や群れに対して損害賠償を行う法的・倫理的義務が生じる。
  • 不法行為への対処: 例えば、ある国の企業が川を汚染して魚たちが死んだなら、それは「自然保護」という慈善事業ではなく、他国の市民に対する不法行為への責任追及と同じ文脈で語られる。
  • 主体性の明確化: 「人類全体」という曖昧な責任に逃げるのではなく、誰が、どの地域で、誰の権利を侵害したのかを明確にすることで、法的な解決が可能になる。

このような世界で大きな問題となるのが、「生存空間の競合」だ。土地開発は許されるのか。
これも人間と動物・環境ではなく、国家間に類似したものと考えればわかりやすい。ただし、「国家間の領土紛争」であれば交渉がおこなわれるが、自然相手に交渉は不可能であるし、代替地を提供します、と言うのも不可能。なので、徹底した「非侵略」しか許されなくなる。現状を力で変更しようとすることは侵略であり、過去の歴史は振り返らず「現状を維持」することが平和への道であるといえる。
人間が利便性のために未開発の土地へ進出することは、正当な理由のない領土侵略であり、平和を乱す行為として断罪される。
「人間も動物も、今いる場所でそのままの生を全うする権利がある」となり、人類が数万年続けてきた「拡大」という本能的な行動様式への完全な決別を意味する。
このような世界で、もし自然災害や気候変動によって、人間または動物のどちらかが「移動(避難)」を余儀なくされ、結果として相手の領域に踏み込まざるを得なくなった場合、それは難民問題となるのか。
これは人間国家同士とはまったく異なる。相手との対話は不可能であり、また人間側に圧倒的な現状変更の力があるという「力の不均衡」が著しい。対話が不可能な相手(動物)に対して、人間が「救済」や「調整」という名目で介入し始めた瞬間に、結局は人間がルールを決める「支配と管理の構造」に逆戻りしてしまう。

たとえ相手が災害で滅びようと、あるいは自らが困窮しようと、「不干渉」を絶対的な鉄則として貫くこと。それが、力の強い人間が「種の優越性」を完全に放棄するための、唯一かつ究極の自己規律ということになる。
つまり人間が真に「動物の権利」を認めるということは、慈悲を与えることではなく、「徹底的に無関係でいること」であると言える。
この世界では、人間も動物も、ただ「その種である」という理由で特権を持つことはなく、各々が持つ潜在能力を自由に発揮して生きる権利を有する。ただし、その「自由」は他者の同等の権利の境界線で厳格に止まる。人間同士のリベラリズムの原則となんら変わることはない。
この社会の未来の発展はかなり制限される。

  • 自己完結的な繁栄: 他種の犠牲や土地の強奪を前提としない技術(合成肉、垂直農業、クリーンエネルギーなど)によってのみ、人間の能力を開花させる。
  • 正当防衛の限界: 万が一、物理的に他種から攻撃を受けた場合も、あくまで「その個体からの防衛」に必要な最小限の力行使に留め、種全体への報復や管理には繋げない。

このような拡大も搾取も許されない環境では、物理的な成長はいずれ飽和し、リソースの再分配と効率化のみが活動の中心となる。
動物の権利が実現された世界とは、「足るを知り、境界を守る」という究極の静的社会へと変貌する。
この世界は幸福なのか?
この世界が維持できている時点で社会の幸福は満たされていると考えられる。火事が起きない消防署、戦争がない軍隊とおなじように。
「平穏であること自体が最大の公共の幸福」となる。
個々人の幸福はやはり内面に向かうか、技術の発展によるバーチャル空間に向かう。

そして、この世界へと至る最初の一歩である最大の障壁は、「ほんの僅かな味覚の快楽」のために、他者の生命を奪い、一生を苦痛にさらすことを是認してしまう執着、「肉食」だ。
「美味しいから」「それが当たり前だから」という自己中心的な快楽を、他者の「生存という根源的な権利」よりも優先する。この「非対称な価値判断」を手放すことが、人間が「種の優越性」という幻想から脱却するための第一歩となる。
肉食という日常的な行為の裏にある「暴力」を直視し、それを「必要のないもの」として排除できたとき、初めて人間は、「他者を侵害しない自律的な存在」へと進化する資格を得るのかもしれない。


「動物の権利が実現された世界」は、慈悲と愛に溢れた優しい世界ではなかった。
徹底的な不干渉と無関心の世界だ。
その代わり、人間により苦痛を味わう動物はなく、それぞれがそれぞれの生を謳歌し死んでいく。
この世界は、現代人から見れば「拡大を禁じられた停滞(ディストピア)」に見えるかもしれない。
けれど、倫理的には「他者の犠牲を完全に排した唯一の平和(ユートピア)」だろう。
もちろん、これとは違う、もっと慈愛に溢れた「動物の権利が実現された社会」、も想定可能だろう。

そもそも「ユートピア」って、トマス・モアが描いた実在しない理想郷・実在しない完全社会のこと。
「どこにもない場所」っていう意味でもあったんだった。


このような世界を妄想してきたけれど、この世界での人々の暮らしとか、国家間の問題とか、人間と動物の交流といった「物語」を描けたら楽しいだろうな、と思う反面、自分にはそんな文章力も構成力も想像力もないな、と理想と現実を直視して、僕は筆を置くのであった。


ところで、筆を置く?パソコンで書いてるのに?
ノートを閉じる?スリープボタンを押す?保存する?
どれもしっくりこない。
慣用句として「筆を置く」でよしとしようか。
さっそく筆を置いて、横ですやすやと眠る猫のお腹を撫でる仕事に戻るとしよう。

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