テーラーでスーツを

 自分がちょっと大人になったな、と思えたエピソードのひとつが、スーツを作ったとき。

高校を卒業してから就職したのは整備士だったから、スーツなんてまったく着ていない。
それ以降もほぼずっとフリーター。
フリーランスになってもIT系だから、仕事でスーツを着るということはまったくなく、スーツとは無縁で暮らしてきた。
「スーツを着る」ということに、どこか忌避感と、憧れとを感じていた。
高卒だしコミュ障だし、スーツを着る仕事なんて出来ない。出来る気がしない。
20代の頃は、たぶん僕にとっての“すっぱいブドウ”のひとつが、スーツだった。
「あんな決まり切った型にはまった仕事したくない」
「みんなクローンロボットみたいでかわいそう」
「夏なのにネクタイ締めて上着はおって…」
一方、ドラマや映画に出てくるようなビシッとスーツを決めたおじさまはやっぱりかっこいいと思ったり。
朝スーツを着て電車に乗っていく人を眺めながら、「あれは嫌だなー」「真面目に働いてて偉いなー」「スーツかっこいいなー」っと、矛盾するいろいろな感情を持つ。

20歳になる頃、たしか地元の商店街のスーツ屋で一番安い礼服を買った。
一般常識も友だちもないし親戚も皆無な僕は、スーツが必要だとは思っていなかった。そしてあるとき必要になり、何年かぶりに引っ張り出した20歳スーツは、虫に食われていた。
30代半ば頃、お金にもある程度余裕があった僕は、スーツを作ることにした。さすがに冠婚葬祭に着ていくものがないのはまずい、と今更ながらに気づく。
せっかくだから、ちゃんと体型にあったスーツを作ろうと思い立った。
僕は背が高く腕も長い。
既製品だとサイズが合わない。
胴体に合わせると首回りはダルダルだし袖が短い。
袖に合わせると胴体がブカブカ。
もっとも僕に限らず、吊りのスーツ(既製品)でピッタリサイズの人なんてまずいないらしいけど。

どうせならちゃんとしたテーラーで作ってもらおう。
テーラーといえば銀座、となぜか思い立ち、少し調べ、老舗ながらお手頃価格らしいテーラーへ電話して予約。
コミュ障でも頑張れば電話ぐらいはできる。
銀座の街を歩き、路面にあるそのお店に入店。1階は女性用なので、スルーして2階にあがる。
木目ベースの古そうだけど落ち着く感じの小さなお店の奥に、スーツの似合うお髭の紳士がいた。
眼が合ったおじさまに、予約した者ですがと話しかけ、スーツ作りの相談。
このテーラーでは、セミオーダー・フルオーダーと、手縫い・機械縫いがあるらしい。
フルオーダーで手縫いになると、もう目玉が飛び出るお値段だし、そこまでは必要ない。
一番安いセミオーダーの機械縫いが一般的とのことで、もちろんそれでお願いした。
採寸してもらうと、右手と左手の長さが違う。
既製品が合うわけがない。

そしていよいよどのようなスーツを選ぶか決める。
勝手なイメージのイタリア人カリスマ美容師みたいに、「あなたに似合うのはこれね。生地なんかこれがセクシーよ」みたいに、お姉言葉でポンポン決めてくれるのかと思いきや、当たり前だけどこちらの意見を聞いてくる。
「いやー、人それぞれ好みがありますから」みたいな感じ。
“あなた絶対これが似合うわ!オプション”があったら迷わず申し込むのに。
聞かれても、スーツなんてまともに考えたことがない。
違いがあることすらほとんど知らない。
基礎知識くらい仕入れてから来るものなのだろうか。それならかなりご迷惑をかけてしまった。
全体としては、イギリス式・イタリア式・アメリカ式の3種類が大きな分類らしい。
イギリス式は、肩パッド強め、重厚でクラシカルな感じ。ダブルのスーツみたいな。僕のイメージではスラっとしたスマートな感じではなく、中肉中背のどっしりとしたイメージ。
イタリア式は、柔らかくて軽いイメージ。セクシーでファッショナブル。
アメリカ式は、よくわからない。ゆったりしているそうな。
僕が好きなのはクラシカルなイギリス風だけど、体型的にはイタリアのほうが似合うのかな。そういうのも特にアドバイスしてくれない。というか僕のコミュ力が低すぎてそういう相談ができていない。
お店にいっぱい吊ってある見本の中から、よさげなのを選ぶ。自分に似合うかどうかは正直わからない。好きなの着ればいいやと選ぶ。結局選んだ見本が何式なのかもわからなかった。

そしてここからも大変。
まず生地を選ぶ。
セミオーダースーツのお値段の差は、ひとえに生地の差。仕立てる手間は一緒なので、技術料みたいな部分は変わらず、一番安い生地で確か4.5万くらいから、高いので数十万円。
生地見本の中から選ぶも、正直これもよくわからない。
小心者&せっかくつくる&少しは見栄っ張りなところが出て、一番安い生地は選べない。結局たしか、8万円くらいのやつにした。上着とスラックスとベストの3点で。
次に裏地も選ぶ。ベストもこの裏地が使われる。柄がいっぱいあって迷う。
そして大事な形も選ぶ。
ベントの位置と数。
背中の切れ込みのことで、真ん中に一本あるのが元は乗馬用、左右にあるのが元は腰の剣を抜きやすいようにだとか。切れ込み無しもある。
さらに、ポケットの形。
襟の形や太さ。
袖口の仕様。
パンツのタックの数、裾はシングルかダブルか。
などなど。
セミとはいえオーダーだけあって、選ぶことだらけ。
しまいには、ボタンの種類も選ぶ。
こちらはオプション追加費用で、宝飾品のようなボタンも選べる。
もちろん追加料金なしの中で無難なものを選ぶ。
お値段大して変わらないので、ベストも作ってもらった。
一緒にフォーマル用のシャツもオーダーし、こちらも生地や形を選ぶ。
この日はこれで終了。
わからないことだらけだし、他人といっぱいコミュニケーションしたことで疲れ果て、どこにも寄らずに帰宅。
たしか3週間くらいで完成してまた取りに来る。
スーツを受け取った後は、銀座のどこかの百貨店の適当な靴屋さんに寄って、革靴も買う。
フォーマルでも使える最もフォーマルな靴を選ぶ。
ストレートチップ(つま先に一文字の線)で、内羽根の革靴。
本当はクラリーノとかの人工皮革がよかったけど、見当たらなかったので高すぎず安すぎずのものを出してもらい、26.0cmのものがちょうどのようで、それを購入。
普段は26.5だけど革靴は小さ目になるらしい。
フォーマルな革靴にしたせいか、靴底は革なので雨の日怖い。滅多に履かないし革靴には未だに慣れない。

スーツの方は当然だけど身体にぴったりでとてもよかった。
そのお店には採寸したデータがあるので、次からは採寸無しでオーダーできる。いろいろ選ぶのは変わらないけど。
ということでセミオーダースーツが気に入った僕は、その後普段使いのスーツ、コート、シャツ2枚をオーダー。
大人の仲間入りをした。

とはいえ、スーツを着る機会なんて相変わらずにない。
その頃初台に住んでいた僕は、オペラシティの地下で大戸屋ディナーをした帰り、コンサート予定表のチラシをエスカレーター横のカタログスタンドから手に取り、これだ!とひらめく。
クラシック・コンサート!
クラシック音楽は気になっていた。
聞きに行ってみたいと思うもハードルが高い。
でもチラシに書いてある「定期演奏会」ってやつは、お安いし気軽に行けるようだ。
これに行こう。
クラシックコンサートなのだからスーツをビシっと決めて。
窓口でチケットを購入し、当日。
初めてのコンサート会場、ちょっと緊張しながら案内に従って会場入りして席に着く。
なにかおかしい。
よくみると、みなさんほとんど普段着。
こちらはベストまで着てるのに。
なんだかちょっと浮いていた。
定期演奏会は、本当にラフだった。

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